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つれづれと草る日記

つれづれと草りたいときに草る日記です。

マイナス思考とプラス思考の対話

想像

「いいところのない人なんてない。どんな短所も見ようによっては長所になる」

活力にあふれた大学一年生だったころのわたしは本気でそう思っていた。

 

そんな私がまさか生きる意味がよくわからないないとか何をしても何となくつまらないとか何をするにもどこかめんどくさいなどと言う人間になるとは思ってもみなかった。

今となってはかつての私が今の私を遡っていった過去の一点で一致していることが信じられない。

過去の記憶の中の風景はまるで並行世界を生きるもう一人の自分の目から通して見ているかのように感じる。

 

大学生22歳男。それが今の自分。

今の私に会ったらあなたは何て言うだろう。

 

「いやほんと短所と長所は表裏一体やで。なんか言ってみてや、長所に言い換えるから」

 

飄々とした顔つきで青年は言った。

シミのないつるっとした頬をしている。

憎たらしいことにこの青年はあまり苦労をしたことがないのだろう。

 

「ああ、言ってやろうじゃないか。最近何をやってもやる気がわかないんだ。というか何もしていないんだ。本当に無気力人間なんだよ。別にそれが悪いことだとかは思ってないんだけどこんなのは別に長所でも何でもないだろ」

 

そうだ。長所とか短所とかっていうのは自分を他者や自分の中の基準と比べて優れているか劣っているか判断して初めて生じる概念であって、虚栄心や自己中心性にとらわれなければそもそも長所がないとか短所があるとかいうことには悩まなくなるんじゃないだろうか。つまり自ら足ることを知っていれば何も苦は生じないんじゃないか。

じゃあなんで俺は無気力であることにこんなにももやもやしているんだ。

無気力であることは悪いことじゃないと思うと言っておきながら、やはりそれはいいわけであって実は無気力状態に不満を抱いているのだと認めなければならない。

苦楽は表裏一体だから苦を捨てれば楽も生じないのではないだろうか。

ちょうど幸と不幸が見かけの姿を変えて何度も繰り返されるのと同じように。

だから俺は楽を心のどこかで捨てきれないでいるのに、苦を捨て去りたいがために楽まで一緒に手放そうとしているのだ。

己の中に大きな矛盾を抱えていることに気づかないあほうよ。

 

ああ。

悩みの正体を見切った。

 

「無気力っていうのは心が落ち着いているってことやろ」

若い青年が答える。

 

やっぱりなんか浅いな。でもなんでも頭ごなしに否定するのは良くない。

 

「ああ。そうかもしれないな」

言ってみて確かにそうかもしれないと思った。

無気力はプラスでもマイナスでもない。

ゼロだ。

 

「他にないん」

若い青年はどうやら短所を長所に言い換えるゲームに興じたいらしい。

おそらく人の悩み自体にはさほど関心がもてないのだろう。

若い勘違い京大生にありがちな自己中心的な人だ。

ああ。こいつは俺かもしれない。過去の自分のことを活力あるプラス思考の若者だと美化していたけれど、その実は自分のことしか考えていたくないと思っているから、他の人の悩みは冗談みたいに流してしまえる自己中だ。なぜ他の人がそんなことで悩むのかわからない。だから短所は長所だと言うし、自分は他の人よりも悩まない性質なんだと思っている。でもたぶんまだ悩んだことがないだけだ。たまたま今まで悩み事に出会わなかっただけだよ。

 

「じゃあ俺ちょっと理屈っぽいかも」

 

言葉遊びに付き合ってやることにした。

もうすぐいろいろ悩むことになるよ。

でもだから今じゃなくていい。

飄々と生きている葦にわざわざ誰かが向かい風を吹き付けてやる必要はないさ。

 

「それは頭がいいってことやん」

青年は笑いながら言った。

 

そうだった。

こいつはいいやつだった。

 

お前は俺だよ。

 

梅雨明けの青空を仰ぐと、葉の生い茂る幹越しに夏の日がまぶしい。

まだ6月だというのに気の早いセミが鳴いていた。

ここが変だよSPI性格検査 厳選3問

就活 偉い人の言葉

就活をしているとリクルートの子会社が提供しているSPIなる簡単な試験を受けることになる。

Synthetic Personality Inventory

総合的な性格 目録

被験者の性格や思考能力全般を測定してくれる素晴らしい試験だ。

 

SPIは性格検査と能力検査から成るのだが、SPI性格検査は惜しい点が一つある。

全ての質問にAかBかで答えなければならない点だ。

でも人間の性格はもっと複雑なんだ。

 

中学高校の社会科を思い出してほしい。

かのアリストテレスが言っていた。

全ての性質は中庸こそ最善なのだと。

SPI性格検査には

C「AとBのバランスが大事だと思う」

という選択肢がない。

もしアリストテレスがSPI性格検査を受けたら

仕方なく適当にAかBを選ばざるを得ないので、最終的に

「回答者は嘘をついているか不真面目に回答をしている可能性があります」

と判断されるのではないだろうか。

 

実際に性格検査の設問を3つ厳選して紹介いたします↓

 

 

 

 

①説得について

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そもそも説得術を心得た人なら相手によってより有効な手段を用いるだろう。

情に訴えることが有効だと思えば情に訴えるだろうし、理詰めがものを言うと分かれば理詰めで攻める。

だからそういう人たちは仕方なく適当に回答し、のちのち他の質問に対する回答と矛盾が生じることになってしまう。

 

もちろん理性的か感情的かというと多くの人がどちらかのタイプに分かれるのだろうが、50:50で両方の性質を持っている人間は中庸という回答が準備されていないと困ってしまう。

 

思うに人はそもそも理性的であり感情的でもある。

そうであればこそ涙をのんで悔しい思いを糧にするというようなことも起きるのだ。

それはただ感情ばかりに支配された生き方よりもただ理性ばかりに支配された生き方よりもよっぽど人間的な生き方だ。

 

分かっている。SPI性格検査が「強いていうならどちら寄りですか?」という設問なのだということは。

おっしゃる通りで理性と感情の間に葛藤が生じるからこそこういう設問が成立するのだが、葛藤が生じるということは裏を返せばバランスの余地があるということでもある。

私が言いたいのはそこでうまくバランスを取って生きているタイプの人もいるんだよという話だ。

だから中庸が選択肢にないと困ってしまう。

 

 

 

 

②自己主張について

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これも回答しづらい設例だ。

自己主張をしすぎて後悔することが多い人はいるだろうし、逆に自己主張を我慢して後悔する人もいるだろう。

そうやって次はもう少し我慢してみたり、もう少し自己主張してみたりして、ちょうどいい線の引きどころを探っていくのが大人ではないだろうか。

人間関係に正解はない。

なにせ世の中に同じ人間は一人としていないんだから。

だからもどかしくて悩むんだし手探りで分かり合おうとしていく。

自己主張で悩むというのはちょうどいい線の引きどころに悩むということであって、向こう側に引きすぎるかこちら側に引きすぎるかは、どっちも同じ悩みなんじゃなかろうか。

つまり自己主張が強すぎてする後悔も、自己主張を我慢しすぎてする後悔も本質的には全く同じことだと思うんです。

子供の頃Aに(Bに)偏っていて、青年期に反省してBに(Aに)移ろうとしてみて、大人になってやっぱりそれでも同じように自己主張の機微に悩んで、遂に結局はどちらに寄ろうが本質的には変わらなくて大事なのはバランスをとることなんだと気づく、それがリアリティある一人の人間ではないでしょうか。

そのときその人は自己主張をしすぎてした後悔も自己主張を我慢しすぎてした後悔も同じ数だけ知っている味わい深い大人になっていると思うんだけどなあ。

 

なぜ回答の選択肢にC「どちらも同じ数だけ味わってきた」がないのかしら。

 

 

 

③保守と革新について

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もちろん世の中にはバリバリの保守主義者や革新主義者は一定数いるだろうし、大多数の人は「別にどっちでもないんだけどどちらかというとこっち」という立場だろう。

でも中にはちゃんと考えてる人がいて、確固たる意志を持って革新的な考えを大事にする人や、確固たる意志を持って保守的な考えを大事にする人もいるだろう。

 

私自身は生まれつきマイペースで斬新なアイデアを出したりするのが得意だった。

そしてどちらかというと常識や伝統を理由にアイデアを制限されたりするのが嫌だった。だから保守的な考え方が嫌いだった。歴史や伝統を大事にする理由を聞いても「ずっとそうしてきたから。伝統だから。」と言われるのにウンザリした。

 

でも作曲をするようになって、自分では最高だと思う音楽が音楽経験者に全く評価されないことに気づいた。そして音楽はある種言葉のようなものできちんと相手にわかるようにルールに則って表現することが大事だと気づいた。

そして自分では最高だと思った音楽を音楽経験者に理解してもらえるような形で表現するために古典和声(クラシックの作曲理論)を学んだ。朝から晩まで半年くらい。

個性を表現するために伝統を道具として用いるようになったんだ。

 

特に学問芸術の分野ではこのことがすごく大事だ。

時代に名を残す偉人たちはたいてい革新派でも保守派でもなくて、伝統のはしごに上って絵を描いた、言わば保守的革新派ばかりだ。

バロック時代を切り開いたモンテヴェルディルネサンスの音楽を全て吸収していたし、かの有名な数学者物理学者哲学者ニュートンだって「私が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗っていたからだ」と述べている。

孔子の言葉にも日本人なら誰もが知っているであろう温故知新というものがある。

古きを温め新しきを知るというのは正に伝統を重んじる革新派の姿勢そのものだ。

保守と革新のバランスが大事なのだということは、結局はアリストテレスの言う中庸に通じるだろう。

 

逆に保守派の人もいつかきっと歴史や伝統がなぜ尊重されねばならないのかという問いに答えなければならなくなる。

伝統が常に伝統であり続けるためには

「伝統だから。今までそうやってきたから」と答えるだけでは足りないのだ。

何故なら時間は全てを飲み込み、いつか伝統自体の求心力も飲み込もうとする時が来るからだ。

そのとき伝統自体の意味をもう一度ありありと捉え直すことができるのは誰の目か。

保守派の目ではない。

人は自分自身の顔を直接見ることはできない。

革新派の目からこそ伝統の意義、強さはありありと見つめることができるに違いない。

 

保守派だろうと革新派だろうと自らの立場と信念を突き通すためには、いずれ必ずお互いの力を借り合わねば立ち行かなくなるのである。

 

私は確固たる意志を持った保守的革新派だ。

それはよくある"どちらでもない"では決してない。

中庸というのは決してただの中間じゃない。

バランスを取るというのは消極的な姿勢では達成できない。

中庸とは積極的に取る態度だ。

 

でも選択肢にC「保守と革新のバランスを大事にする方だ」がないから私みたいな人は適当に答えるしかないの…

 

ふざけて回答してるわけじゃないんですよ…

嘘つこうと思って嘘ついてるわけでもないんですよ…

 

矛盾した回答になっちゃうのは私にとって選択肢が足りてないからなんです…

 

 

 

最後に

こういう具合に中庸の立場の人が答えづらい問題が他にも沢山ある。

正直アリストテレス孔子みたいな人は現代社会じゃマイノリティだろうけど、いなくはないんじゃないかな。個人的な願望としては割と沢山いてほしい。

この試験に対するモヤモヤした気持ちに共感してくれる人、強く求む。

社会半適合者が選ぶ就活の嫌なところ Best 3

就活

第1位 みんな服が同じ

 

就活はなぜ黒スーツなんだ

身長高いから全身黒だと威圧感すごくてめっちゃ目立つんだよ

私服オーケーの説明会も行ったよ

私以外全員スーツだったよ

しかも全員"黒い"スーツだったよ

人事と自分だけ私服なもんだから横に座った就活生に企業側の人だと思われてめっちゃ丁重に挨拶されたよ

「すみません!失礼します!」

違うんです。私も同じ側の人間なんです。普通に隣に腰掛けてくだされ

あとなんかほとんどみんな青ネクタイなんだよね

スーツ買いに行ったら青が知的で落ち着いた印象、赤が情熱的な印象でオススメですよって言われたけど、あれみんな言われてんのかな

だとしたらなぜ黒が就活スーツの定番になってるんですか
色の持つ印象で就活用ネクタイを決めるならスーツだってもっとふさわしい色があると思うんですよ
確かに黒は落ち着いた印象がありますよ
でも威厳とか喪のイメージもありますよね
それよりも真面目で和らいだ印象を与えるグレーや、重厚と安定のネイビーの方がいいと思うわけです

 

 

第2位 鼻水がうざい

 

三月も半ばになり花粉が世間を賑わせている
花粉が飛ぶと鼻水が出る
私は水鼻が出るタイプだ
それはもうサラサラと流れる

 

人間サラサラ成分を色んなところに持ってると思うんです。
髪の毛とか肌ごしとか性格とか血液とか
でもなんか私はサラサラポイントを鼻水に極振りしちゃったみたいなんですよね
髪の毛とかちょうボサボサだし


どれくらいボサボサかというと高校の頃の卒アル写真はアフロだし
自分バレー部じゃないのにバレー部員たちの間で羊って呼ばれてたらしいし
中学の頃のあだ名は今思い出したけどスチールウールだったし

 

くっそ思い出したらムカついてきた
あいつらいいように言いやがって
悪気はなかったんだろうけどひどい言い草だ

 

とにかくもう子供の頃の私はサラサラであることに激しく憧れた
サラサラでさえあればモテモテでウハウハでガッポガポで人生がすべてうまくいくとまで思ってた

 

そんな私を神様は見捨てなかった
あらゆるサラサラから最も遠い位置にあると思われた私の人生にもサラサラなものがあったんだ

 

 

そう

 

 

 

鼻水だ

 

 


水水だ

 

 


水水している

 

 


鼻水だけどすごくみずみずしている

 

 

 

どれくらい鼻が水かというとこんなエピソードがあるんだけど聞いてくれますか

 


たいていの日本人は鼻から水が出そうになったら鼻をかむと思うんだ
その際そもそも選択肢は他にも色々あるはずなんだけどティッシュペーパーを使う人が多いはずだ
もちろん私もたいていそうやって鼻の水を処理するんだけど
たまに「あー。ティッシュ取りに行くのめんどくせえなあ」と思うときがあるんだ

 

ところで私は綺麗好きだから常にハンケチを持ち歩いているんだ
たとえ火の中海の中山の中森の中、中中中中中中中スカートの中
なかなか大変だけど
ハンケチはいつも持っている

 

もともとは鼻水がみずみずしすぎて頻繁に重力に従って落ちてくるから
その雫をいちいちティッシュで処理するのも面倒だということでハンケチを持ち歩いてたんだけど
家にいるときでも「あー。 ティッシュ取りに行くのめんどくせえなあ」と思ったとき
あえて私はもう鼻水をハンケチで処理することにしているんだ

 

まあ待ってくれ
本題はここからだ
ちゃんと鼻水がサラサラな話をするから

 

するとあんまり水がサラサラなもんだから、ティッシュなら柔らかく包まれた鼻水たちが、硬いハンケチに反射して眉間に跳ね返ってくるくらいサラサラなんだ

 

伝わってますかね?これ
以下ファラオの壁画調に図示しておきます

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凄くないですか。
しかもサラサラだから顔についてもあんまり不快じゃないんです。

 

 

でもやっぱりこう鼻水は顔につかない方がいいんですよ

つくかつかないかで言ったらそりゃあつかない方がいいわけです

 

 

だから花粉が跳梁跋扈する就活のシーズンはちょっと嫌ですね

 


第3位 調査中

 

多分これからもっと就活で嬉しいことや嫌なことがあると思うんです。

それこそ鼻水とかどうでもよくなるくらいに。

だからちゃんと心の備えをすることが大事だと思うんです。

鼻水が跳ね返るよりもっと恐ろしいことがいつか起こっても

どんと構えていたいんです。

そのためには変に鼻水と比べて不安になりすぎず楽観しすぎず

不安に勇気を添えるくらいがちょうどいいと思うんです。

 

だから第3位は空けておきます。

夢について

だからなんだ

「夢を見た。冬の松林を旧友と分け入っていく夢だ。のっそりのっそりと枝を押しのけ進んでいく。そのたびに枝に積もった雪が自分の右腕に落ちてくる。雪の感触はそこに何もないかのようにやわらかくて軽かった。ふと薄い橙色の小さなクモが巣と一緒に揺れているのが目に入った。僕が気づかずに枝を押しのけようとしたからクモは落とされまいと懸命に踏ん張っているようだった。巣をかいくぐって松林を抜けると親しい友に出会って夢から覚めた。」

 

夢日記を書くのは精神上よくないと読んだことがある。

なんでも日記をつけるうちにはじめはおぼろげだった夢の記憶が次第に明晰になり始め、ついには夢と現実の区別がつかないようになるほど記憶が混乱するらしい。

 

ふつうは逆だ。

目が覚めると次第に頭が覚醒していき現実感が強まってくる。すると逆に夢で見たことは霧のようにかすんでいってしまう。確かに強い感情を抱いた夢も後には感情の残り香だけしか感じ取れない。

 

目が覚めると意識と無意識がとってかわる。

自分の体を動かしている王様が二人いて月の王様と太陽の王様がそれぞれの世界を担っているかのようだ。

 

だから見方次第では眠るときだって意識を失うんじゃなくてだんだん夢の意識が強まってくるとも考えられる。

始めは意識があってベッドで今日会ったことを振り返り明日あることに思いをはせている。

やがて眠りに落ちる間際は想像と考え事と夢と意識のはざまのような夢心地を体感する。

そして夢を見始めると無意識が意識に成り代わる。

そのとき夢の中の私は現実で眠る私が夢を見ているのだとは気づかない。

あんまり夢の中の意識が覚醒しすぎると、とうとう胡蝶の夢みたいに感じるようになるのだろう。

 

寝ている人は起きている人よりも意識を失っているという意味で意識がないだけに過ぎず、夢の中で起きているという意味では意識がある。

昏睡状態の人は夢を見るのだろうか。

三か月の昏睡状態にあった父親は熊に息子たちのためのポテチを盗まれる夢を繰り返し見たという。

https://www.reddit.com/r/AskReddit/comments/288i38/redditors_who_have_been_in_a_coma_did_you_dream/

 

 

夢の世界の意識が現実世界の意識と入れ替わってしまうことがある。

あんまりリアルな夢を見るようになると、どっちを現実で見てどっちを夢で見たのかわからなくなってくる。

というのも現実の体験が夢の引き金になっているからだ。

自分が忘れているような些細なことでも、直前の体験なら生々しく反映されることがある。

しかも夢に出てくるものは現実そっくりそのままでてくるのではなくて、形、色、動きなどの性質が現実で見たものと微妙に変化していたり、動きはA、色はB、形はCというように複数のもののモンタージュだったりする。

だから記憶に混乱が生じる。

 

例えば冒頭で述べた夢に出てきた小さな薄いオレンジ色のクモは二日前に牛丼屋で見た黒い小さなクモと、ここしばらく洗面所の壁に居座っている薄い茶色の小さなクモとが合わさってできているのだと思う。

夢のクモの動きは牛丼屋の黒いクモの動きに似ているし、薄いオレンジ色は洗面所の灯りと薄茶色の混色だ。

牛丼屋で見たクモのクモらしからぬおぞましい動きに抱いた不快感がどこか心に残っていて、それが引き金となって夢にクモが出てきたに違いない。

 

このように現実を巧妙に調整し再配置した夢を記憶としてもってしまうと、あれは夢でみたんだったかな、これは昨日あの店で見たんだったかなと一瞬考えなければ分からなくなるようになることがある。

夢日記を書きすぎると頭がおかしくなるというのはそれを大げさに言っているんだろう。

 

逆に全く知らない場所や会ったことも見たこともない人が夢に出てくることがある。

つまり夢は現実で見たばらばらの事象を想像の糸でつなげた嘘の記憶であり、部分的には本当の記憶でもある。

 

だから現実がなければやっぱり私たちが今見ているような夢は生じない。

もし生まれてから何も見えず触ることのできない存在があったとして、彼はどんな夢を見るのだろうか。例えば生まれてまもなく真っ白い立方体の部屋に入れられ、白い壁と床と天井以外に何もない環境で育った生物はどんな夢を見るのだろうか。

 

夢は現実で我慢している欲求を夢の中で体験して解放する性質も持っている。

人は普段は理性の働きによって我慢をしている訳だけど、夢を見る際に理性が失われているかと言えばそんなことはなく、むしろ夢の中のわたしも夢の中である程度考え感じる程度に意識はあるのに、それにもかかわらず例えば夢で人を殺したりすることがある。

脳の働きによる理性は無意識的な欲求からくる脳の働きによってちょうど必要な分だけ弱めることができるものなのだろう。

目的論的自殺論

人生

1.目的や理由が分からないと行動したくないと感じる人

 

生まれつき学問を好む傾向がある子どもはあらゆることに理由を求める。

そして学校に通うようになるとますます子どもたちの知的好奇心を刺激するものが溢れてくる。

しかも学校で教えることになっている社会と体育と道徳と国語以外の全ての科目は彼ら彼女らの根本的な疑問に答えられることしか教えないようになっている。
人間の脳内で最もドーパミンが出るのはできないことができるようになったときだと言われている。だから分からなかったことが分かるようになることは脳科学的に最も興奮する体験の一つだ。


すると彼ら彼女らは新しいことを学ぶ際に「何でそうなるの?」と常に考えるようになる。
学問において「何でそうなるの?」と問うことは極めて重要なことなので、彼ら彼女らは学業において好成績を修める。だから多くが大学まで進学することになる。


そうして二十数歳に至るまで何にしても何故そうなるのかを考える生活を送り続けると、ついに理由が分からなければ行動したくないと感じるようになる。

 

 

 

 

2.哲学を好む人が陥りやすい危険、生きる意味の喪失

 

そういう若者は大学生くらいになると、理由を考えることそのものである哲学に興味を持つようになる。


生きるとは何か。
何故生きるのか。
何のために生きるのか。


しかし人生の根本的な問題を考えるようになると泥沼にはまることになる。
何故ならそれは答えのない問いだからだ。
唯一絶対の答えはあるかもしれないがそれを知るのは神のみだ。


歴史上多くの哲学者が自分なりの答えを出してきたが、答えは人によって異なる。

つまり誰もどれが正しくてどれが間違っているか分からないのだ。

逆にいうとどれも正しくてどれも間違っている。

人生の意味は何かという問いに対する答えに当該個人が心から納得できるならその答えは彼または彼女の人生において正しいと言って良いので、彼または彼女は生きる意味を持つことができる。しかし人生の意味は何かという問いに対して当該個人が心から納得できる答えを導き出すことができない場合、彼または彼女は生きる意味が分からないという状態に陥る。

 

 

 

 

3.生きる意味が分からない→死ぬことに意味が生じれば生よりも死を選ぶ動機になる


生まれてこのかた全ての疑問に対して答えを求めてきたために、今では全ての物事に対して何でそうするのかが分からないと行動に移すことができなくなってしまった人間が、生きる意味が分からなければどうなるかというと、生きることを積極的に実践することができなくなる。


残念なことに多くの人にとって人生の意味について自分が心から納得できる理由を見出すのは極めて困難だ。よって生きる意味が分からなくて悩んでいる大学生はかなりの数にのぼると思われる。


それでも生きる意味が分からず悩んでいる大学生が即座に死を選択しないのは、死にたくないという感情の方が、生きる意味が分からないことに対する絶望よりも大きいからである。積極的に生きる意味も持たないけど、かと言って積極的に死ぬ意味も持たないのである。


しかし彼ら又は彼女らは他の人に比べて自殺に近い位置にいる。
何故なら生きる意味が無なので万が一死ぬ意味が僅かでも生じれば、生きる意味を死ぬ意味が簡単に上回ってしまうからだ。
そうすると他の人が恐怖から生を選択するような場合でも、死を選択しやすいだろう。


例えば堪え難い苦しみを味わったとき、それを逃れる方法が自殺以外に考えられたとしても、自殺することによってその苦しみから即座に解放されるとなれば、彼又は彼女にとっては自殺を選択する動機として十分だ。

 

 

 

 

4.自殺者の真意は生きている者には推察することしかできない


自殺の報道がなされると、自殺以外にも苦しみを逃れるすべはあっただろうに何故自殺を選択したのか分からないと感じる人は少なくないだろう。
自殺した人の自殺に至るまでの精神状態は自殺未経験者には推察することしかできない。
自殺にまで思い詰めるとき人は冷静な判断ができなくなっているのかもしれないし、生きていること事態が苦しみだと感じたのかもしれないし、今逃げて生き延びても生きていくことはできないだろうから結局自殺するなら今死んだ方が自分にも他人にも迷惑かけないだけいいだろうと思ったのかもしれない。

 

 

 

 

5.まとめ


ただ目的論的な立場からするとたとえ自殺以外に問題解決方法があったとしても、自殺によって問題が解決できるなら、生きる意味が分からない場合自殺する動機として十分であると言える(3段落参照)。しかも生きる意味は大抵の人間にははっきりとは分からない場合が多いというのがミソだ(2段落参照)。


つまり多くの場合、目的論的立場からするとたとえ自殺以外に問題解決方法があったとしても自殺によって問題が解決できるなら、自殺する動機として十分であると言える。

 

そしてそのような目的論的立場をとる人間は実際にいると思う(1段落参照)。

誤ってティッシュを洗濯機に入れてしまいベランダが池になるくらい排水口が詰まっても放置し続けた男の末路

だからなんだ

 ベランダの洗濯機を回すたびに水が多少溜まるのはいつものことだった。

しかし3日経っても水が引かないのは初めてのことだった。

 

いい加減にこれ以上洗濯したら屋内に浸水して困りそうだなと思い掃除することにした。

それにバスタオルもTシャツも洗濯できていないので、これ以上お風呂上がりの体を乾かす布が残されていないことが現状最も逼迫した問題だった。

 

何故なら私はそれでもお風呂に入りたいからだ。

 

そのためにはそろそろバスタオルたちを洗濯しなければならない。

 

そう思ったのが3日前のことだ。

私は意を決して窓を開けてみた。

 

しかしベランダに溜まっていた水だと思っていたものは、よく見てみると紙と洗剤が溶けた弾力性のある液だった。

 

 

これは流せないし手に負えないな。

とりあえず乾くまで幾日か放置することにした。

 

 

 

そして今朝のこと

 

 

 

窓を開けると一面に白い世界が広がっていた

私は図らずもティッシュと洗剤で白い紙を作っていたのか…

wow

 

 

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割り箸を買ってきて、結構力を込めて擦ってみると割と剥がれる。

おっしゃあ!

こするぞ!

 

 

 

 

 

 

オラオラオラオラオラオラオラ!

オラア!!!

 

 

 

 

 

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飽きた

 

人は何故落書きするときアホと書くのだろう

何故意味のない記号を書くことにこれほど満足感を覚えるのか

 

あとなぜ小学生は音楽の時間先生が来るまで40人が40人ともリコーダーをピーヒャラピョロかすのだろうか

そこに音程や音楽という概念はない

はたから聞くとほとんど蒸気機関車の汽笛に近いケイオスが鳴り響いている

 

 

おっとっと…いけんいけん

そのようなことはどうでも良いのだ

 

今はお風呂に入って体を清めるためにこの紙どもをこそげ落とさねば

 

 

 

 

 

しかし洗剤の粉のような粉塵が立って煙たい

健康に悪くないだろうか

 

これはマスクが必要だな

作業効率を上げるために買いに行こう

 

 

 

 

 

 

 

 

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買ってきた

 

高校生のとき笑いのセンスに溢れまくっていた森本くんがおっぱいのモノマネと言って頬を膨らませて唇を可愛らしくすぼめていた。

 

当時の僕はまだそれがどういうことかよく分かっていなかったので何を言ってるんだこいつはと彼の渾身のギャグを軽く受け流してしまった。

 

しかし今にして彼の真の偉大さがわかる。

口とおっぱいという全く異なるように見える二つの器官が実は似ているという発想は、素粒子と宇宙という遠く離れた真逆のスケールにおいて実は同様の力が秩序を作っているというウロボロスの蛇的な発想と全く同じ精神だ。

天才は時として凡人のものさしでは計り知れないほどに見えないものが見えている。

高校生の僕はセンスが溢れすぎている森本くんに対して興味とともに恐怖を感じていたが全然彼の考えの深さを測りきれていなかったのだ。

 

同様に高校生の頃公園で寝そべって丘の上から空を見上げながら、地球が丸いことを実感として理解しその景色を楽しんでいる水野くんという友人がいた。

 

果たして地上にいながら地球の丸さを実感として見たことがある人がどれだけいるだろうか。それも高校生にしてだ。

三次元の人間にして四次元や多次元を概念した偉大な数学者や物理学者と同様の才能を持っている。

 

彼らはそれでいて笑いとアイドルを深く愛する気のいい青年たちだった。

彼らは今どこで何をしているのだろうか。

 

 

 

 

話が逸れてしまった。

要するに口とおっぱいは似ているということが言いたかったのだ。

 

 

 

そしてマスクもやはりブラジャーと似ている。

 

このことを教えてくれたのはこちらの記事だ。

portal.nifty.com

 

 

そうして非常に非効率的に妄想しながら紙を削ること1時間半

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ついにまあいいかと思える程度に紙を剥がし切ることができた。

 

早速バスタオルたちを洗濯機に突っ込み洗いにかける。

 

普通に洗濯機を使っていたらこんなのはやらなくて済む仕事だったはずなんだけど、いざ終わってみるとなんだかとてもいい経験をしたような気もする。

やはり自分で色々考えながらやりたいように仕事をするというのは気持ちがいいものだ。

働くことでどうすれば幸せになれるか

就活

社畜と自分のことを卑下する人たちがいる。

彼らは本当は働くことをそんなに悪く思って居ないのかもしれないし、本当に死ぬほど辛く思っているのかもしれないし、どちらが真実により近いのかは私にはわからない。
でも彼らは企業に勤めて、その代わりに給料をもらって生きる道を選んでいる。
もし彼らが奴隷のような苦しみを味わっているとしたら、それは何故なのだろうか。どうすれば働くことで幸せになれるだろうか。

 

 

 

 

古来働くことを人は選択してきた。およそ働かずに生きてこられたのは奴隷制度の上に生活を為した人か恵まれた放蕩息子の類いだけだったろう。
いや、働くことを選択してきたというよりも生きるということが働くということそのものだったと言っても良いかもしれない。自然を生きる動植物を見てみれば、およそ限りある命のうちのほとんど全ての時間を糧を得るために費やしている。もしかすると生物の生態について私が知らないだけで、実はイルカのように作曲をしたりまた他の生き物も家族とともに憩いの時を過ごしたりして生を満喫しているのかもしれない。しかし少なくとも日々の糧を得るために時間を割くことをしない生き物を私は知らない。ヒトという種族も物心ついたときから狩猟、稲作、その他の産業をなしてきた。人を含め生き物とは生きるために働くように作られているのだ。働くということが日々の糧を得ることを言うなら、それはあくまで生物学的には生きることそれ自体だったはずである。そして働くことは生きることそれ自体にとって本質的な行為なのだということが真実ならば、働くことを苦痛に感じるというのは決して見過ごしてはいけない社会の病気である。

 

 

 

 

社畜と呼ばれる人たちに次の質問をしてみる。

もし週5日働いて月一で給料日がくるか、週5日ごとに給料日が来て月一で出勤するかどちらかを選べることになったら、それでも今のライフスタイルを選択するだろうか。
一月でもらえる給料の総額はどちらの場合も同じとする。

どちらを選ぶだろう?

 

社畜は間違いなく後者のライフスタイルを選ぶだろう。
つまりもし可能ならできるだけ働く時間は少ない方がいいと思っている。それは働くということが彼らにとって至上の目的ではなく、他にもっとやりがいや生きがいを感じることを持っていることを意味する。例えば家族とともに時間を過ごしたいだとか、ボランティア活動をしたいだとか、大学に入り直してもう一度数学を勉強し直したいだとか、中身は人によって様々だろう。いずれにせよ共通していることは働くこと自体及び働いて得られる給与自体は彼らを最も幸せにするものではないということだ。

 

 

 

 

本来は仕事にはサービスを受け取る人々を幸せにするだけでなく、その笑顔がサービスを供給する人を喜ばせるという喜びがある。そのときわれわれは仕事を通して自己実現欲求と承認欲求を満たし社会への帰属感を強める。単にお金を稼ぐことで得られるのとは次元を異にする報酬が仕事にはある。働くことで幸せになれる可能性がここにあるだろう。

はたしてお金で量れない報酬が勤め人にきちんと与えられているか。自己を社畜と卑下し「できれば働きたくない」と主張する勤め人たちには与えられていないのだろう。例えばブラック企業かどうかは関係がなくホワイト企業でもグレー企業でも同じようなことがあるかもしれないが、誰かが欠けるだけで回らなくなる職場は組織として問題があると言われるという。組織としては健全な判断なのかもしれないが、人間一人から見た場合どうだろう。自分がいてもいなくても同じようにその企業の製品やサービスを受け取る人の笑顔は変わらないのだとしたら、その人はお金以外の報酬を実感できるだろうか。働くという活動の報酬が単なる給金以上に他者や社会との関わりの中で役割を果たす喜びに根ざしているのだとしたら、働く人間が代替可能となった職場にはもう働くことの喜びはないだろう。つまり何が言いたいかというと、働くことを苦痛に感じる本因は、仕事において人間が交換可能なものとして扱われる仕組みにあるのではないかということだ。

 

 

 

 

人間に代替性を付与する仕組みは全体的効率性を達成する一方で人間の尊厳を損なわせる。
働くことでどうすれば幸せになれるかに答えよう。原因がこの仕組みであることが真実だとするならば、答えはその仕組みを抜け出すか破壊する以外に求めようがない。
この仕組みに当てはまらない企業は確かに存在する。少数の技術者集団で形成される企業がそうだ。昨今やたら若人が独立したり起業したりしているのは多分多くの二十代が私と同じようなことを考えているのだろうと思う。若者は政治的に声を上げないと言われることがあるが、時間が経てば若者がおじさんおばさんになる。同じようなことを考えている人が結構多いならちゃんと世の中は変わるだろうと楽観視している。