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つれづれと草る日記

つれづれと草りたいときに草る日記です。

包除原理を命題論理学の推論規則で証明する。

ブログを書かないと言いましたが、書きます。

なぜならブログを書くことは自分の利益にならなくなったからやめたわけですが、社会の利益になる情報を書かない理由はどこにもないからです。

 

集合の包除原理がなぜ成り立つのか、命題論理による証明がwebに見つからず困ったので、ここに載せます。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

A∨B ≡(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)の証明

(但し≡は「同値」を、∧は「かつ」を、∨は「または」を、¬は「not」を意味する論理記号)

 

①まずA∨B ⊃(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)を示す
(但し⊃は包含関係を示すのではなく、ここでは「ならば」を意味する論理記号である)

同様に人は「矛盾」を、-Iは「論理記号を導入する推論規則の適用」を、-Eは「論理記号を除去する推論規則の適用」を意味する論理記号とする。

さらに[]で囲まれた論理式は仮定(仮に真であるとした命題)であることを示す。
仮定の横に付けた数字は、推論規則の適用によって仮定を解消していく順番に対応している。以下では数字が大きい方から先に解消していくことにしている。)

 

[A]1[B]3
_____ ∧-I
    A∧B
_____∨-I
(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B) [ ¬((A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B))]2
___________________________________¬-E
      人
_____¬-I,3
   ¬B [A]1
_____∧-I
    A∧¬B
_____∨-I
(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B) [ ¬((A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B))]2
___________________________________¬-E
         人
_____¬-I,2
¬¬((A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B))
____________________¬¬-E
(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)
_______________⊃-I,1
A⊃(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)

 

BとAは対称だから、同様の手順で
B⊃(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)
が真であることも示される

 

従って

                                   [A]2                                               [B]2
                     _______________      _______________
[A∨B]1    (A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)         (A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)
__________________________________∨-E,2
(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)
_______________⊃-I,1
A∨B ⊃(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)

 

 

② 次に(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)⊃ A∨B (①の逆)であることを示す

 

                                                          [A∧B]2        [A∧¬B]2
                                                        _____ ∧-E _____∧-E
                                                                 A                      A
                                                        _____∨-I   _____∨-I
[(A∧B)∨(A∧¬B)]1                   A∨B                   A∨B
___________________________________∨-E,2
       A∨B
_____⊃-I,1
(A∧B)∨(A∧¬B)⊃ A∨B

 

一方で
[¬A∧B]1
_____∧-E
       B
_____∨-I
      A∨B
_____⊃-I,1

¬A∧B⊃A∨B

 


従って
                                                              [(A∧B)∨(A∧¬B)]2 [¬A∧B]2
                                                                 __________      _____
[(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)]1                A∨B                           A∨B
__________________________________∨-E,2
    A∨B
_____⊃-I,1
(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)⊃ A∨B

 

①②より
A∨B ≡(A∧B)∨(A∧¬B)∨(¬A∧B)

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上で証明は終わりです。

論理学を学ぶ大学生向けの記事でしたが、集合を勉強中の高校生が訪れないとも限らないので、上式をそのまま高校数学の言葉で書き直したものも載せておきます。

 

(証明)
[ⅰ](A∪B)⊂(A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B)を示す

x∈(A∪B)と仮定する・・・①
①⇔x∈A 又は x∈B

さらに
x∈A・・・②
x∈B・・・③
と仮定すると
②かつ③より、x∈(A∩B)
(A∩B )⊂((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))であるから
x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))
(但し、A^は集合Aの補集合であることを表すものとする。B^は集合Bの補集合であることを表すものとする)

ところで、x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B)) ^・・・④
と仮定すると
xがある集合の要素であると同時にその集合の補集合の要素でもあることになり矛盾する。

したがって仮定③を否定する。
つまり
x∈Bでない
⇔x∈B^
これと②より、x∈(A∩B^)
(A∩B^)⊂   ((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))であるから
x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))

またしても仮定④と矛盾する
したがって仮定④を否定する
つまりx∈(((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))^)ではない
⇔x∈(((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))^)^
⇔x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))・・・⑤

②⇒⑤が示された。

同様に、上記の手順で仮定③と④を否定する代わりに、仮定②と④を否定することによって、③⇒⑤も示される。

したがって(②または③)⇒⑤

ところで①⇔(②または③)
だから、
①⇒⑤が成立する
つまり任意のxについて、x∈(A∪B)⇒ x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))
したがってA∪B ⊂ ((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))

[ⅱ](A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B)⊂ A∪B を示す
x∈((A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B))と仮定する・・・⑥

x∈((A∩B)∪(A∩B^))・・・⑦
x∈(A^∩B)・・・⑧
と仮定する

一般に
x∈(A∩B) ⇒ x∈A ⇒ x∈(A∪B)(∵A∩B ⊂ A⊂A∪B)

及び
x∈(A∩B^)⇒ x∈A ⇒ x∈(A∪B) (∵A∩B^ ⊂ A ⊂ A∪B)
が成り立つから
⑦⇔「x∈(A∩B)またはx∈(A∩B^)」⇒ x∈(A∪B)

また
⑧⇔ x∈(A^∩B)⇒ x∈B ⇒ x∈(A∪B) (∵A∩B^ ⊂ B ⊂ A∪B)

したがって(⑦または⑧) ⇒ x∈(A∪B)
つまり仮定⑦⑧の下でx∈(A∪B)が成り立つ。

今⑥⇔(⑦または⑧)であるから
仮定⑦⑧に依らず、仮定⑥だけの下でx∈(A∪B)が成り立つ。
つまり、「⑥⇒x∈(A∪B)」が無仮定で成り立つ。

ゆえに
(A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B)⊂ A∪B
が無仮定で成り立つ。

[ⅰ][ⅱ]より
A∪B = (A∩B)∪(A∩B^)∪(A^∩B) (証明終わり)

ブログを書かない理由とちょっと書く理由について

私がブログを書きはじめたのはある面白いブロガーさんに憧れたからです。

もともと人が書いたwebの記事や小説やブログを読むのが好きで暇があったから自分でも書いてみようかと思ったんですよね。

 

しかし世の人に自分の意見を発信する意味というのが分からなくてしばらく更新を控えていました。
私は自分の主義も思想も自分で納得できるし、また共感してほしいという願望もないことはないのですが日常の他愛ない会話で感じる幸せと比べるとSNSで得られる共感の形は不自然にすぎると感じますし、それに世の中の価値観を自分にとって生きやすいように変えてやろうという少し前まで抱いていた衝動に至っては今となってはちっとも感じないのです。

 

ところでブログを書いていてよかったなあと思うことがあります。
それは似通った主義思想をもつ人のブログを簡単に探せるようになったことです。
先日はじめて誠実なスターを頂いたのですが、その方のブログを拝見してみるとやはり面白かったです。
私の書いたものを面白いと思ってくれる人なんだから、その人の書いたものを読んで私が面白いと感じるのは当たり前ですよね。感性に似ているところがあるということなんだから。
そして彼のブログ記事にスターをつけている人ともやはり興味がかぶるようで、芋づる式に自分が共感できるブログを探していくことができました。

こういう風に実生活でも面白い話相手を見つけていきたいものです。

 

繰り返しですが世の人に自分の考えを発信するというのがどうも性に合わないようなので、多分これが最後の記事になります。

今まで一度でも読んでくださった方、ありがとうございました。

マイナス思考とプラス思考の対話

「いいところのない人なんてない。どんな短所も見ようによっては長所になる」

活力にあふれた大学一年生だったころのわたしは本気でそう思っていた。

 

そんな私がまさか生きる意味がよくわからないないとか何をしても何となくつまらないとか何をするにもどこかめんどくさいなどと言う人間になるとは思ってもみなかった。

今となってはかつての私と今の私が同一人物であることが信じられない。

過去の記憶の中の風景はまるで並行世界を生きるもう一人の自分の目から通して見ているかのように感じる。

 

大学生22歳男。それが今の自分。

今の私に会ったら過去の私は何て言うだろう。

 

「いやほんと短所と長所は表裏一体やで。なんか言ってみてや、長所に言い換えるから」

 

飄々とした顔つきで青年は言った。

シミのないつるっとした頬をしている。

憎たらしいことにこの青年はあまり苦労をしたことがないのだろう。

 

「ああ、言ってやろうじゃないか。最近何をやってもやる気がわかないんだ。というか何もしていないんだ。本当に無気力人間なんだよ。別にそれが悪いことだとかは思ってないんだけどこんなのは別に長所でも何でもないだろ」

 

そうだ。長所とか短所とかっていうのは自分を他者や自分の中の基準と比べて優れているか劣っているか判断して初めて生じる概念であって、虚栄心や自己中心性にとらわれなければそもそも長所がないとか短所があるとかいうことには悩まなくなるんじゃないだろうか。つまり自ら足ることを知っていれば何も苦は生じないんじゃないか。

じゃあなんで俺は無気力であることにこんなにももやもやしているんだ。

無気力であることは悪いことじゃないと思うと言っておきながら、やはりそれはいいわけであって実は無気力状態に不満を抱いているのだと認めなければならない。

苦楽は表裏一体だから苦を捨てれば楽も生じないのではないだろうか。

ちょうど幸と不幸が見かけの姿を変えて何度も繰り返されるのと同じように。

だから俺は楽を心のどこかで捨てきれないでいるのに、苦を捨て去りたいがために楽まで一緒に手放そうとしているのだ。

己の中に大きな矛盾を抱えていることに気づかないあほうよ。

 

ああ。

悩みの正体を見切った。

 

「無気力っていうのは心が落ち着いているってことやろ」

若い青年が答える。

 

やっぱりなんか浅いな。でもなんでも頭ごなしに否定するのは良くない。

 

「ああ。そうかもしれないな」

言ってみて確かにそうかもしれないと思った。

無気力はプラスでもマイナスでもない。

ゼロだ。

 

「他にないん」

若い青年はどうやら短所を長所に言い換えるゲームに興じたいらしい。

おそらく人の悩み自体にはさほど関心がもてないのだろう。

若い勘違い京大生にありがちな自己中心的な人だ。

ああ。こいつは俺かもしれない。過去の自分のことを活力あるプラス思考の若者だと美化していたけれど、その実は自分のことしか考えていたくないと思っているから、他の人の悩みは冗談みたいに流してしまえる自己中だ。なぜ他の人がそんなことで悩むのかわからない。だから短所は長所だと言うし、自分は他の人よりも悩まない性質なんだと思っている。でもたぶんまだ悩んだことがないだけだ。たまたま今まで悩み事に出会わなかっただけだよ。

 

「じゃあ俺ちょっと理屈っぽいかも」

 

言葉遊びに付き合ってやることにした。

もうすぐいろいろ悩むことになるよ。

でもだから今じゃなくていい。

飄々と生きている葦にわざわざ誰かが向かい風を吹き付けてやる必要はないさ。

 

「それは頭がいいってことやん」

青年は笑いながら言った。

 

そうだった。

こいつはいいやつだった。

 

お前は俺だよ。

 

梅雨明けの青空を仰ぐと、葉の生い茂る幹越しに夏の日がまぶしい。

まだ6月だというのに気の早いセミが鳴いていた。

ここが変だよSPI性格検査 厳選3問

就活をしているとリクルートの子会社が提供しているSPIなる簡単な試験を受けることになる。

Synthetic Personality Inventory

総合的な性格 目録

被験者の性格や思考能力全般を測定してくれる素晴らしい試験だ。

 

SPIは性格検査と能力検査から成るのだが、SPI性格検査は惜しい点が一つある。

全ての質問にAかBかで答えなければならない点だ。

でも人間の性格はもっと複雑なんだ。

 

中学高校の社会科を思い出してほしい。

かのアリストテレスが言っていた。

全ての性質は中庸こそ最善なのだと。

SPI性格検査には

C「AとBのバランスが大事だと思う」

という選択肢がない。

もしアリストテレスがSPI性格検査を受けたら

仕方なく適当にAかBを選ばざるを得ないので、最終的に

「回答者は嘘をついているか不真面目に回答をしている可能性があります」

と判断されるのではないだろうか。

 

実際に性格検査の設問を3つ厳選して紹介いたします↓

 

 

 

 

①説得について

f:id:toraraka:20170316205129p:plain

そもそも説得術を心得た人なら相手によってより有効な手段を用いるだろう。

情に訴えることが有効だと思えば情に訴えるだろうし、理詰めがものを言うと分かれば理詰めで攻める。

だからそういう人たちは仕方なく適当に回答し、のちのち他の質問に対する回答と矛盾が生じることになってしまう。

 

もちろん理性的か感情的かというと多くの人がどちらかのタイプに分かれるのだろうが、50:50で両方の性質を持っている人間は中庸という回答が準備されていないと困ってしまう。

 

思うに人はそもそも理性的であり感情的でもある。

そうであればこそ涙をのんで悔しい思いを糧にするというようなことも起きるのだ。

それはただ感情ばかりに支配された生き方よりもただ理性ばかりに支配された生き方よりもよっぽど人間的な生き方だ。

 

分かっている。SPI性格検査が「強いていうならどちら寄りですか?」という設問なのだということは。

おっしゃる通りで理性と感情の間に葛藤が生じるからこそこういう設問が成立するのだが、葛藤が生じるということは裏を返せばバランスの余地があるということでもある。

私が言いたいのはそこでうまくバランスを取って生きているタイプの人もいるんだよという話だ。

だから中庸が選択肢にないと困ってしまう。

 

 

 

 

②自己主張について

f:id:toraraka:20170316210850p:plain

これも回答しづらい設例だ。

自己主張をしすぎて後悔することが多い人はいるだろうし、逆に自己主張を我慢して後悔する人もいるだろう。

そうやって次はもう少し我慢してみたり、もう少し自己主張してみたりして、ちょうどいい線の引きどころを探っていくのが大人ではないだろうか。

人間関係に正解はない。

なにせ世の中に同じ人間は一人としていないんだから。

だからもどかしくて悩むんだし手探りで分かり合おうとしていく。

自己主張で悩むというのはちょうどいい線の引きどころに悩むということであって、向こう側に引きすぎるかこちら側に引きすぎるかは、どっちも同じ悩みなんじゃなかろうか。

つまり自己主張が強すぎてする後悔も、自己主張を我慢しすぎてする後悔も本質的には全く同じことだと思うんです。

子供の頃Aに(Bに)偏っていて、青年期に反省してBに(Aに)移ろうとしてみて、大人になってやっぱりそれでも同じように自己主張の機微に悩んで、遂に結局はどちらに寄ろうが本質的には変わらなくて大事なのはバランスをとることなんだと気づく、それがリアリティある一人の人間ではないでしょうか。

そのときその人は自己主張をしすぎてした後悔も自己主張を我慢しすぎてした後悔も同じ数だけ知っている味わい深い大人になっていると思うんだけどなあ。

 

なぜ回答の選択肢にC「どちらも同じ数だけ味わってきた」がないのかしら。

 

 

 

③保守と革新について

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もちろん世の中にはバリバリの保守主義者や革新主義者は一定数いるだろうし、大多数の人は「別にどっちでもないんだけどどちらかというとこっち」という立場だろう。

でも中にはちゃんと考えてる人がいて、確固たる意志を持って革新的な考えを大事にする人や、確固たる意志を持って保守的な考えを大事にする人もいるだろう。

 

私自身は生まれつきマイペースで斬新なアイデアを出したりするのが得意だった。

そしてどちらかというと常識や伝統を理由にアイデアを制限されたりするのが嫌だった。だから保守的な考え方が嫌いだった。歴史や伝統を大事にする理由を聞いても「ずっとそうしてきたから。伝統だから。」と言われるのにウンザリした。

 

でも作曲をするようになって、自分では最高だと思う音楽が音楽経験者に全く評価されないことに気づいた。そして音楽はある種言葉のようなものできちんと相手にわかるようにルールに則って表現することが大事だと気づいた。

そして自分では最高だと思った音楽を音楽経験者に理解してもらえるような形で表現するために古典和声(クラシックの作曲理論)を学んだ。朝から晩まで半年くらい。

個性を表現するために伝統を道具として用いるようになったんだ。

 

特に学問芸術の分野ではこのことがすごく大事だ。

時代に名を残す偉人たちはたいてい革新派でも保守派でもなくて、伝統のはしごに上って絵を描いた、言わば保守的革新派ばかりだ。

バロック時代を切り開いたモンテヴェルディルネサンスの音楽を全て吸収していたし、かの有名な数学者物理学者哲学者ニュートンだって「私が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗っていたからだ」と述べている。

孔子の言葉にも日本人なら誰もが知っているであろう温故知新というものがある。

古きを温め新しきを知るというのは正に伝統を重んじる革新派の姿勢そのものだ。

保守と革新のバランスが大事なのだということは、結局はアリストテレスの言う中庸に通じるだろう。

 

逆に保守派の人もいつかきっと歴史や伝統がなぜ尊重されねばならないのかという問いに答えなければならなくなる。

伝統が常に伝統であり続けるためには

「伝統だから。今までそうやってきたから」と答えるだけでは足りないのだ。

何故なら時間は全てを飲み込み、いつか伝統自体の求心力も飲み込もうとする時が来るからだ。

そのとき伝統自体の意味をもう一度ありありと捉え直すことができるのは誰の目か。

保守派の目ではない。

人は自分自身の顔を直接見ることはできない。

革新派の目からこそ伝統の意義、強さはありありと見つめることができるに違いない。

 

保守派だろうと革新派だろうと自らの立場と信念を突き通すためには、いずれ必ずお互いの力を借り合わねば立ち行かなくなるのである。

 

私は確固たる意志を持った保守的革新派だ。

それはよくある"どちらでもない"では決してない。

中庸というのは決してただの中間じゃない。

バランスを取るというのは消極的な姿勢では達成できない。

中庸とは積極的に取る態度だ。

 

でも選択肢にC「保守と革新のバランスを大事にする方だ」がないから私みたいな人は適当に答えるしかないの…

 

ふざけて回答してるわけじゃないんですよ…

嘘つこうと思って嘘ついてるわけでもないんですよ…

 

矛盾した回答になっちゃうのは私にとって選択肢が足りてないからなんです…

 

 

 

最後に

こういう具合に中庸の立場の人が答えづらい問題が他にも沢山ある。

正直アリストテレス孔子みたいな人は現代社会じゃマイノリティだろうけど、いなくはないんじゃないかな。個人的な願望としては割と沢山いてほしい。

この試験に対するモヤモヤした気持ちに共感してくれる人、強く求む。

社会半適合者が選ぶ就活の嫌なところ Best 3

第1位 みんな服が同じ

 

就活はなぜ黒スーツなんだ

身長高いから全身黒だと威圧感すごくてめっちゃ目立つんだよ

私服オーケーの説明会も行ったよ

私以外全員スーツだったよ

しかも全員"黒い"スーツだったよ

人事と自分だけ私服なもんだから横に座った就活生に企業側の人だと思われてめっちゃ丁重に挨拶されたよ

「すみません!失礼します!」

違うんです。私も同じ側の人間なんです。普通に隣に腰掛けてくだされ

あとなんかほとんどみんな青ネクタイなんだよね

スーツ買いに行ったら青が知的で落ち着いた印象、赤が情熱的な印象でオススメですよって言われたけど、あれみんな言われてんのかな

だとしたらなぜ黒が就活スーツの定番になってるんですか
色の持つ印象で就活用ネクタイを決めるならスーツだってもっとふさわしい色があると思うんですよ
確かに黒は落ち着いた印象がありますよ
でも威厳とか喪のイメージもありますよね
それよりも真面目で和らいだ印象を与えるグレーや、重厚と安定のネイビーの方がいいと思うわけです

 

 

第2位 鼻水がうざい

 

三月も半ばになり花粉が世間を賑わせている
花粉が飛ぶと鼻水が出る
私は水鼻が出るタイプだ
それはもうサラサラと流れる

 

人間サラサラ成分を色んなところに持ってると思うんです。
髪の毛とか肌ごしとか性格とか血液とか
でもなんか私はサラサラポイントを鼻水に極振りしちゃったみたいなんですよね
髪の毛とかちょうボサボサだし


どれくらいボサボサかというと高校の頃の卒アル写真はアフロだし
自分バレー部じゃないのにバレー部員たちの間で羊って呼ばれてたらしいし
中学の頃のあだ名は今思い出したけどスチールウールだったし

 

くっそ思い出したらムカついてきた
あいつらいいように言いやがって
悪気はなかったんだろうけどひどい言い草だ

 

とにかくもう子供の頃の私はサラサラであることに激しく憧れた
サラサラでさえあればモテモテでウハウハでガッポガポで人生がすべてうまくいくとまで思ってた

 

そんな私を神様は見捨てなかった
あらゆるサラサラから最も遠い位置にあると思われた私の人生にもサラサラなものがあったんだ

 

 

そう

 

 

 

鼻水だ

 

 


水水だ

 

 


水水している

 

 


鼻水だけどすごくみずみずしている

 

 

 

どれくらい鼻が水かというとこんなエピソードがあるんだけど聞いてくれますか

 


たいていの日本人は鼻から水が出そうになったら鼻をかむと思うんだ
その際そもそも選択肢は他にも色々あるはずなんだけどティッシュペーパーを使う人が多いはずだ
もちろん私もたいていそうやって鼻の水を処理するんだけど
たまに「あー。ティッシュ取りに行くのめんどくせえなあ」と思うときがあるんだ

 

ところで私は綺麗好きだから常にハンケチを持ち歩いているんだ
たとえ火の中海の中山の中森の中、中中中中中中中スカートの中
なかなか大変だけど
ハンケチはいつも持っている

 

もともとは鼻水がみずみずしすぎて頻繁に重力に従って落ちてくるから
その雫をいちいちティッシュで処理するのも面倒だということでハンケチを持ち歩いてたんだけど
家にいるときでも「あー。 ティッシュ取りに行くのめんどくせえなあ」と思ったとき
あえて私はもう鼻水をハンケチで処理することにしているんだ

 

まあ待ってくれ
本題はここからだ
ちゃんと鼻水がサラサラな話をするから

 

するとあんまり水がサラサラなもんだから、ティッシュなら柔らかく包まれた鼻水たちが、硬いハンケチに反射して眉間に跳ね返ってくるくらいサラサラなんだ

 

伝わってますかね?これ
以下ファラオの壁画調に図示しておきます

f:id:toraraka:20170315165310p:plain

 

凄くないですか。
しかもサラサラだから顔についてもあんまり不快じゃないんです。

 

 

でもやっぱりこう鼻水は顔につかない方がいいんですよ

つくかつかないかで言ったらそりゃあつかない方がいいわけです

 

 

だから花粉が跳梁跋扈する就活のシーズンはちょっと嫌ですね

 


第3位 調査中

 

多分これからもっと就活で嬉しいことや嫌なことがあると思うんです。

それこそ鼻水とかどうでもよくなるくらいに。

だからちゃんと心の備えをすることが大事だと思うんです。

鼻水が跳ね返るよりもっと恐ろしいことがいつか起こっても

どんと構えていたいんです。

そのためには変に鼻水と比べて不安になりすぎず楽観しすぎず

不安に勇気を添えるくらいがちょうどいいと思うんです。

 

だから第3位は空けておきます。

夢について

「夢を見た。冬の松林を旧友と分け入っていく夢だ。のっそりのっそりと枝を押しのけ進んでいく。そのたびに枝に積もった雪が自分の右腕に落ちてくる。雪の感触はそこに何もないかのようにやわらかくて軽かった。ふと薄い橙色の小さなクモが巣と一緒に揺れているのが目に入った。僕が気づかずに枝を押しのけようとしたからクモは落とされまいと懸命に踏ん張っているようだった。巣をかいくぐって松林を抜けると親しい友に出会って夢から覚めた。」

 

夢日記を書くのは精神上よくないと読んだことがある。

なんでも日記をつけるうちにはじめはおぼろげだった夢の記憶が次第に明晰になり始め、ついには夢と現実の区別がつかないようになるほど記憶が混乱するらしい。

 

ふつうは逆だ。

目が覚めると次第に頭が覚醒していき現実感が強まってくる。すると逆に夢で見たことは霧のようにかすんでいってしまう。確かに強い感情を抱いた夢も後には感情の残り香だけしか感じ取れない。

 

目が覚めると意識と無意識がとってかわる。

自分の体を動かしている王様が二人いて月の王様と太陽の王様がそれぞれの世界を担っているかのようだ。

 

だから見方次第では眠るときだって意識を失うんじゃなくてだんだん夢の意識が強まってくるとも考えられる。

始めは意識があってベッドで今日会ったことを振り返り明日あることに思いをはせている。

やがて眠りに落ちる間際は想像と考え事と夢と意識のはざまのような夢心地を体感する。

そして夢を見始めると無意識が意識に成り代わる。

そのとき夢の中の私は現実で眠る私が夢を見ているのだとは気づかない。

あんまり夢の中の意識が覚醒しすぎると、とうとう胡蝶の夢みたいに感じるようになるのだろう。

 

寝ている人は起きている人よりも意識を失っているという意味で意識がないだけに過ぎず、夢の中で起きているという意味では意識がある。

昏睡状態の人は夢を見るのだろうか。

三か月の昏睡状態にあった父親は熊に息子たちのためのポテチを盗まれる夢を繰り返し見たという。

https://www.reddit.com/r/AskReddit/comments/288i38/redditors_who_have_been_in_a_coma_did_you_dream/

 

 

夢の世界の意識が現実世界の意識と入れ替わってしまうことがある。

あんまりリアルな夢を見るようになると、どっちを現実で見てどっちを夢で見たのかわからなくなってくる。

というのも現実の体験が夢の引き金になっているからだ。

自分が忘れているような些細なことでも、直前の体験なら生々しく反映されることがある。

しかも夢に出てくるものは現実そっくりそのままでてくるのではなくて、形、色、動きなどの性質が現実で見たものと微妙に変化していたり、動きはA、色はB、形はCというように複数のもののモンタージュだったりする。

だから記憶に混乱が生じる。

 

例えば冒頭で述べた夢に出てきた小さな薄いオレンジ色のクモは二日前に牛丼屋で見た黒い小さなクモと、ここしばらく洗面所の壁に居座っている薄い茶色の小さなクモとが合わさってできているのだと思う。

夢のクモの動きは牛丼屋の黒いクモの動きに似ているし、薄いオレンジ色は洗面所の灯りと薄茶色の混色だ。

牛丼屋で見たクモのクモらしからぬおぞましい動きに抱いた不快感がどこか心に残っていて、それが引き金となって夢にクモが出てきたに違いない。

 

このように現実を巧妙に調整し再配置した夢を記憶としてもってしまうと、あれは夢でみたんだったかな、これは昨日あの店で見たんだったかなと一瞬考えなければ分からなくなるようになることがある。

夢日記を書きすぎると頭がおかしくなるというのはそれを大げさに言っているんだろう。

 

逆に全く知らない場所や会ったことも見たこともない人が夢に出てくることがある。

つまり夢は現実で見たばらばらの事象を想像の糸でつなげた嘘の記憶であり、部分的には本当の記憶でもある。

 

だから現実がなければやっぱり私たちが今見ているような夢は生じない。

もし生まれてから何も見えず触ることのできない存在があったとして、彼はどんな夢を見るのだろうか。例えば生まれてまもなく真っ白い立方体の部屋に入れられ、白い壁と床と天井以外に何もない環境で育った生物はどんな夢を見るのだろうか。

 

夢は現実で我慢している欲求を夢の中で体験して解放する性質も持っている。

人は普段は理性の働きによって我慢をしている訳だけど、夢を見る際に理性が失われているかと言えばそんなことはなく、むしろ夢の中のわたしも夢の中である程度考え感じる程度に意識はあるのに、それにもかかわらず例えば夢で人を殺したりすることがある。

脳の働きによる理性は無意識的な欲求からくる脳の働きによってちょうど必要な分だけ弱めることができるものなのだろう。

目的論的自殺論

1.目的や理由が分からないと行動したくないと感じる人

 

生まれつき学問を好む傾向がある子どもはあらゆることに理由を求める。

そして学校に通うようになるとますます子どもたちの知的好奇心を刺激するものが溢れてくる。

しかも学校で教えることになっている社会と体育と道徳と国語以外の全ての科目は彼ら彼女らの根本的な疑問に答えられることしか教えないようになっている。
人間の脳内で最もドーパミンが出るのはできないことができるようになったときだと言われている。だから分からなかったことが分かるようになることは脳科学的に最も興奮する体験の一つだ。


すると彼ら彼女らは新しいことを学ぶ際に「何でそうなるの?」と常に考えるようになる。
学問において「何でそうなるの?」と問うことは極めて重要なことなので、彼ら彼女らは学業において好成績を修める。だから多くが大学まで進学することになる。


そうして二十数歳に至るまで何にしても何故そうなるのかを考える生活を送り続けると、ついに理由が分からなければ行動したくないと感じるようになる。

 

 

 

 

2.哲学を好む人が陥りやすい危険、生きる意味の喪失

 

そういう若者は大学生くらいになると、理由を考えることそのものである哲学に興味を持つようになる。


生きるとは何か。
何故生きるのか。
何のために生きるのか。


しかし人生の根本的な問題を考えるようになると泥沼にはまることになる。
何故ならそれは答えのない問いだからだ。
唯一絶対の答えはあるかもしれないがそれを知るのは神のみだ。


歴史上多くの哲学者が自分なりの答えを出してきたが、答えは人によって異なる。

つまり誰もどれが正しくてどれが間違っているか分からないのだ。

逆にいうとどれも正しくてどれも間違っている。

人生の意味は何かという問いに対する答えに当該個人が心から納得できるならその答えは彼または彼女の人生において正しいと言って良いので、彼または彼女は生きる意味を持つことができる。しかし人生の意味は何かという問いに対して当該個人が心から納得できる答えを導き出すことができない場合、彼または彼女は生きる意味が分からないという状態に陥る。

 

 

 

 

3.生きる意味が分からない→死ぬことに意味が生じれば生よりも死を選ぶ動機になる


生まれてこのかた全ての疑問に対して答えを求めてきたために、今では全ての物事に対して何でそうするのかが分からないと行動に移すことができなくなってしまった人間が、生きる意味が分からなければどうなるかというと、生きることを積極的に実践することができなくなる。


残念なことに多くの人にとって人生の意味について自分が心から納得できる理由を見出すのは極めて困難だ。よって生きる意味が分からなくて悩んでいる大学生はかなりの数にのぼると思われる。


それでも生きる意味が分からず悩んでいる大学生が即座に死を選択しないのは、死にたくないという感情の方が、生きる意味が分からないことに対する絶望よりも大きいからである。積極的に生きる意味も持たないけど、かと言って積極的に死ぬ意味も持たないのである。


しかし彼ら又は彼女らは他の人に比べて自殺に近い位置にいる。
何故なら生きる意味が無なので万が一死ぬ意味が僅かでも生じれば、生きる意味を死ぬ意味が簡単に上回ってしまうからだ。
そうすると他の人が恐怖から生を選択するような場合でも、死を選択しやすいだろう。


例えば堪え難い苦しみを味わったとき、それを逃れる方法が自殺以外に考えられたとしても、自殺することによってその苦しみから即座に解放されるとなれば、彼又は彼女にとっては自殺を選択する動機として十分だ。

 

 

 

 

4.自殺者の真意は生きている者には推察することしかできない


自殺の報道がなされると、自殺以外にも苦しみを逃れるすべはあっただろうに何故自殺を選択したのか分からないと感じる人は少なくないだろう。
自殺した人の自殺に至るまでの精神状態は自殺未経験者には推察することしかできない。
自殺にまで思い詰めるとき人は冷静な判断ができなくなっているのかもしれないし、生きていること事態が苦しみだと感じたのかもしれないし、今逃げて生き延びても生きていくことはできないだろうから結局自殺するなら今死んだ方が自分にも他人にも迷惑かけないだけいいだろうと思ったのかもしれない。

 

 

 

 

5.まとめ


ただ目的論的な立場からするとたとえ自殺以外に問題解決方法があったとしても、自殺によって問題が解決できるなら、生きる意味が分からない場合自殺する動機として十分であると言える(3段落参照)。しかも生きる意味は大抵の人間にははっきりとは分からない場合が多いというのがミソだ(2段落参照)。


つまり多くの場合、目的論的立場からするとたとえ自殺以外に問題解決方法があったとしても自殺によって問題が解決できるなら、自殺する動機として十分であると言える。

 

そしてそのような目的論的立場をとる人間は実際にいると思う(1段落参照)。