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つれづれと草る日記

つれづれと草りたいときに草る日記です。

学歴とかいう下らないプライドと偏見とにまみれた豚野郎にだけはなりたくないなと思っていたら実は自分自身が既にかなり豚野郎だった話

ラ・ロシェフーコー
「慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。(…)栄達を極めた人々の慎ましさは、その栄位をものともしないほど偉い人間に自分を見せようとする欲望なのである。」(『ラ・ロシェフーコー箴言集』箴言集18より途中一部省略)

 

私は学歴という狭い世界の狭い基準に関してはちっぽけだが栄位を持っている。
そしてそれでいながら「そんなものは全然大したものじゃないから」と冷笑しながら弱々しげに主張し(書いてみるとめっちゃ嫌な奴だな、ちょっと気をつけよう)、ロシェフーコーが言うように常日頃慎ましい態度を崩さない。

 

それはそうすることでなお一層人徳のある人間だと周りに思われようとしているわけではない。
なお一層人徳のある人間だと自分自身が思い込もうとしているのである。
逆に言うと自分自身が下劣な人間であるということを認めたくないのだ。

 

正直大学や学部を聞かれることが苦手だ。

それは京都大学法学部だと答えたときに相手が純粋な尊敬の目を向けてきたり、ひねくれた賞賛をしてきたり、急に敬語になってきたりするのが、気分が悪いからではない。それを気分がいいと思ってしまう自分がいることが気分が悪いからである。
そういったエリート志向の強い虚栄心にまみれた人間にだけはなりたくないと常日頃思っているのに、実は私自身偏見とプライドで肥えた豚野郎なのではないかと疑ってしまうからだ。いや、正確に言うと疑ってしまうからではなくて、気づかされてしまうからだ。
自分が嫌悪するタイプの精神性を自分も有していることを突きつけられたときにどうしようもない不快感を覚える。自分を嫌いになりそうになるからではない。自分を嫌いになる人間にだけは常日頃なりたくないなと思っているのに、実は自分自身が自分を嫌いになりそうな状況に瀕していることに気づかされるからである。
そう、自分が陥らないようにしている人間の弱い部分を実は既に自分の性格の一部として有していたことを知らされるのだ。そのことに耐え難いもどかしさを感じる。それは自分が弱い人間であるということ自体を受け入れられなかったからというよりは、むしろ…
うん?なんかずっと同じこと言ってないか…
自分でも何言ってるか分からなくなってきたぞ。

 

とにかく偏見とプライドにまみれた豚野郎にだけはなりたくないと思う悲しみの豚野郎、それが私。

娯楽について

娯楽には高いものと低いものとがある。

高いものは芸術に近い。
人の記憶になって栄養になる。
また新しい娯楽やときには芸術を生む糧となる。

卑しい娯楽は過ぎていく喜びだ。
芸術が大衆におもねりへつらうとこの娯楽ができる。
過ぎていくものは時間と楽しさ。
やってくるのは虚しさ。

快楽の奴隷になった娯楽の虚しいところは背中にいつも哀しみが残ること。
消費は消し費やすと書きますが、失くなるもので心を満たすことはできませんから。

でも一番虚しいのは、その哀しみを紛らわす方法が娯楽以外に分からなくなること。それは血で血を洗い流すように無益なことで、終わりのない不安に行き詰まる。

鬱から躁へ!(B'z風に)

最近何をやっても面白くないと感じてしまう…

気力がわかない…

なんのために生きてるんだ…

そうだ、死ぬってどんなだろう…

 

そうやってうだうだ妄想したことを気づくとタブレットにメモしている。

 

そして今日、2週間分のメモを読み返して

ふと

自分の心が周期的な運動の様相を呈していることに気づいた。

 

 

 

 

2月10日のメモ
「寒い夜だった。寒さは少しずつ体力を奪い精神も疲労させる。わたしは冬も2ヶ月が経つうちに無自覚に恒常的な無気力症状に囚われてしまっていた。あんまり寒いので天気が恨めしくなって窓から顔を出してみる。すると外は部屋の中よりずっと冷たいのに、何気なく見上げた夜空は寒さを忘れるくらい美しいと思った。何を見ても面白くなく、理由の判然としない苛立ちを感じてばかりだったのに何故そう思えたのかはわからない。しかし日中空を塞いでいた雲と湿気が今まさに突風に吹き流されていくさま、思わず吸い込みたくなるような清廉な冷気、肌が全身冷水で洗い上げられるような感覚、その全てが心地よかった。特に夜の洗われた空気の香りはどんな酒や食事よりもずっと美味しかった。」

非常にロマンチックな抑鬱状態が見て取れる。

 

 

 

 

2月24日のメモ
「享楽主義者なのに娯楽がつまらないと思うようになったらなんだか生きることまでつまらなくなったように思えてくる。最近何を読んでも何を見ても大抵つまらなく感じてしまう。その作品を馬鹿にしてしまうことだってある。最近読んで面白かったのはレオナルドダヴィンチの名言集とブラジャーでアイマスクを作る記事だけだ。楽しければいいと簡単には思えなくなってしまった。簡単に楽しいと感じなくなったから。いつも生きる意味を漫然と考えている。就活が本格的に始まろうとしている今私は自己分析とかそんなみみっちいことはしない。就活にむけて生きる意味を考えている。死に方を考えている。死ぬときに自分が何を思うか分かれば生き方を決められるから。誰かのために使う時間を全て捨ててみて、自分のために時間を使うというのは難しいことだとわかった。何故ならありふれたものは浪費してしまいやすいから。誰かのために時間を使うっていうのは楽なことだ。何故なら他の誰かに自分の時間の使い方を決めてもらえるから。」

やはり無気力気味だ。
2月10日と2月24日の心の状態が似ている。

 

 

 

 

でもこの2週間ずっと無気力だったわけじゃない。
むしろこの2月10日と2月24日の間は自分でも引くぐらいはじけていたと思う。

2月12日【唐突に人生で最も重要なのは愛し愛されることだと気づく】
2月13日【飲み会に参加して幸せを感じる】
2月15日【日本社畜党率いる天才演説家、那智日虎が社畜革命を起こし政権を取る漫画を構想する】
2月16日【急に下ネタを思いつきブログで発信したくなる、そしてした】
2月19日【就活する気になる】

 

 

 

 

もしかしたら14日間で無気力→はじけ→無気力を繰り返しているのかもしれない。
となると明日か明後日あたり壮大な人生の意味に目覚める可能性が高い。
愛なのか。
他の何かなのか。

そうやって思いを巡らせるのが少し楽しい。

あら…

もうすでに次のはじけは心の中ではじけ始めているのかもしれない。

 

ほんのさっきまで

「何をやっても楽しくない…」

とか言ってたのに

 

いやー良かった良かった

来年から使えるお持ち帰り言葉

来年から使えるお持ち帰り言葉
2月3日節分の日

▷Men's Only「俺の恵方巻きも巻いてくれないか」

【解説】
節分の日といえば恵方巻き。大切な人と新しい年の幸福を祈る日ですね。
Womenの場合は「私も巻いて」とかでいいんじゃないですか。男は馬鹿だから何でもいいと思います。
《keypoint》
食後にさりげなく使ってみましょう。
〔編者註釈〕
恵方巻きは太巻きとも呼ばれます。

▷Unisex 「後で寝室の邪気も一緒に払おうね」

【解説】
節分は豆をまいて鬼を払い恵方から福を呼び込む日です。鬼は夜に活発になるそうで、特に夜中に人がいる寝室に邪気がたまりやすいようです。
《keypoint》
食後にさりげなく誘いまししょう。

当ブログにお持ち帰り言葉を掲載する際には情報の正確性について特に注意を払っておりません。でも記載が不正確であったことにより生じたいかなる損害に関しても、当ブログ管理人は責任を負いかねます。

子供も大人も感情に蓋をすることに慣れないように祈ります

一人称について

わたしは心の中で考え事をするとき

気弱な僕になることもあれば

飄々とした俺になったり

優しいわたしになったり

頭でっかちの私だったりする



大学卒業前後の多くの若者がそうであるように

私も詩や思索といったものに強い興味を抱き

自分の内面の世界を紐解いていくことに夢中になった

自己分析
性格診断

あるサイトで40分ほどかけて数百の質問に回答し
いくつかの論理問題や一般常識の問題を解いてみると

診断不可と出た

父性 母性 大人っぽさ 子供っぽさ
四つの指標で数百の性格に分類してくれるはずだったが

曰くどの指標も限りなく平均値に近いため
ふざけて回答した可能性が高いとのことだ



真実は私がその四つの指標では計れない性格をしているということだ

自分の印象について親に尋ねてみると

どんな人かよく分からないと言われた

20年近く育ててくれた親に

ママ友どうしで息子の話題になったとき
いつも私の印象は人によって十人十色だったらしい


僕は子供みたいに無邪気に振る舞うし

かと思えば妙にしっかりしているし

おじいさんみたいに静かに瞳の奥で何かを見つめているかもしれない

私は俺になるときもあるしそのままわたしでいることもある



多重人格とか

人格が分裂している状態とか

そういうわけではない

同じ一人の人間なんだけど性質が気分のように変化し得る



自分を閉じ込めるということ

私の場合はそれが複雑な性格を生み出すきっかけだった

大人の顔色を見て振る舞う子供だった

敬語でしか話せず、先生に子供っぽく甘えられる子たちが羨ましいと思っていた

自分では気づいていなかったと思うが

子供の頃の私にとって性格とは意識して作るものだった

役割を演じる悲しい子供だったのだ



子供の頃、私はみんなの面前で泣いた

弱い自分を恥じて心の奥底に閉じ込めようとした

そしてそれに成功してしまった

そして10数年もの間そのことを忘れていたのだ

大人になってから
あることを契機に奇跡と集中的な思索によって
子供の頃の自分が胸の奥深いところに長い間閉じ込められていたことを思い出した

そして鍵を開けてみると

不思議なことに僕の中には大人になった僕と子供のままの僕が同棲するようになった

その瞬間その日の間は僕は確かに子供だった

帰り道ずっと子供の僕が起きていた



精神年齢は凍結状態にあっては肉体の年齢と切り離された次元で存在し得る

しかしひとたび解凍されるとみるみるうちに肉体の年齢に吸い寄せられていった

気づくともう僕は俺で私だった

でもたぶん解凍してから意識的に多重人格を維持しようと思えば可能だと感じた

僕は少しそれが怖かった、だから意識的に僕は俺で俺は僕なんだと言い聞かせていた



だからなんだ

後日読み返して心底そう思った

君に届け

不思議

 

いつからこんな風に思っていたんだっけ

大学に入った頃からあなたのことは何となく気にはなっていたんだけど

ずっと遠くから見ているだけだった

 

それで十分だった
そのはずだったのに

 

年を経るごとにあなたとの距離が少しずつ近づいて

あなたのことをどんどん意識していくようになった

 

ふと気づくともう手遅れだった

はじめは小さな感情だったのに

知らないうちにどんどん大きくなって

この胸に収まりきらないくらい

もう毎日ずっとあなたのことを考えちゃってる

 

来年になったら卒業だから

やっぱり今ちゃんと言葉にしておきたい

 

もし嫌われちゃったらどうしようって不安になるけど

それでも勇気を出して前に進んでいきたい

 

 

 

…わたし、

 

 

 

 

 

 


わたしやっぱり働きたくないでござる!!!

 

 

 

 

 

 

それはもうわたし絶対に働きたくないでござる!!!!!

 

 

 

 

 

 


言っちゃったー ///

 

 


 

 


私は思っていた

 

大学に入って好きなことを目一杯していたらそのうち将来やりたいことが決まって就職して頑張っていくのだろうと思っていた

そして就職して会社で働くことにそれなりに夢も持っていた

だけどいつのまにか価値観が変わっていた


どうしてこう思うようになったんだろうか
私の労働体験を振り返ってみる

 

 


 

 


私の入ったサークルは文化系であった

有意義で活動内容も面白く仲間もいい人ばかりでとてもいいサークルだった

 

が運営体制は企業のようだった
(それ自体は別に良いことでも悪いことでもない)

 

100人の組織は完全な縦割り運営で維持されており

私はその中で確かに必要だが無駄とも思える会議をサボったり
(それは悪いことだ)
上司に皆の前でボロカスに罵られたりと色々なことを経験してきた

 

そしてなんだかんだで身も心もすり減り気づくとサークルを辞めていた

 

 


 

 


私は1年半ほど飲食でバイトをしていた

スタッフは優しく責任感があり指導も丁寧でとても良い職場だった

 

しかし社員さんは毎日10時間近く働き
カラダを壊してしまう社員さんもいらした

 

その方は専門学校卒で私と同い年で頑張って働いてらっしゃる方だった

 

 


 

 


こうしてみると私が働きたくないでござっているのは

 

労働とは時間と肉体と精神を売ることだという偏見が出来上がってしまっているからなのかもしれない

思うのだ

もし仮に労働が時間と肉体と精神を対価にお金をもらうことであるとして、失った健康を回復するためにお金を使うのなら、それは一体何のためになるのかと

 

 


 

 


しかしそれは働きたくない理由にはならない

だってそれなら自分が好きな仕事をすればいいだけじゃないかということになる

 

好きで働く仕事なら

 

・肉体は疲労するが逆に精神は満たされるので±0
・時間は失うが好きなことに時間を使えるから±0
・それでいてお金ももらえる

 

よって全体としてむしろ+
働くことが本当の意味で自分にとって利益になる

 

 

 

うん働きたい

 

 


 

 


わたし働きたくない!

 

それは実は

 

自分が好きだと思えない仕事で働きたくない!

 

という当たり前というか
甘いこと言うなというか

 

そういうわがままで純粋な願望に過ぎなかったか

 

 


 

 


全ての仕事は結局は何かを作ることだ

 

全ての業界がやってるのは結局は何かを作ることだ
(他の人が作ったものを扱う商人も販売サービスと販売戦略を作っているものとみなす)

 

それは独創的でとても楽しいことだと思う

 

だけどサラリーマンの実際の仕事はその独創的で楽しい仕事を縦に割った一つの部署の(場合によってはそこから更にまた縦に割った一つの課の(場合によっては以下略))部分的な作業だ

 

わたしはそれは退屈に思う

 

全体的一個としての仕事はどこにあるか?

 

それは自営業だ

 

農家も理髪店も執筆家も歌手も研究者も料理人もペットショップもメイドカフェも医者も薬剤師もケーキ屋もスポーツ選手も役者?も

 

こうして並べてみるとどうにも幼稚園児の将来の夢ベスト10みたいだな

それがみんな大人になってちゃんと地に足つけて頑張ってるんだよな

 

幼稚園のお遊戯会で将来の夢言わされたけど

やりたいことがなくてサラリーマンって言ったら
親御さん達にめっちゃ笑われて顔赤くしたの思い出したわ

 

あんなに地に足ついた幼稚園児だったのに
それが今やふわふわ地上20センチくらいを浮遊してるんだから
子供のときの評価ほどあてにならんもんはないね

 

いや違うか
子供のときと大人のときとでは逆になってるのがよくあるパターンなんじゃないかな

 

我慢が開放されたり
反対に暴走してたエネルギーが落ち着いたり


なんかぐだぐだになってきた

 

 

 

 

 

ごめんわたし、なんか思ってたのと違ったかも

 

 


ごめんね…