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つれづれと草る日記

つれづれと草りたいときに草る日記です。

働くことでどうすれば幸せになれるか

就活

社畜と自分のことを卑下する人たちがいる。

彼らは本当は働くことをそんなに悪く思って居ないのかもしれないし、本当に死ぬほど辛く思っているのかもしれないし、どちらが真実により近いのかは私にはわからない。
でも彼らは企業に勤めて、その代わりに給料をもらって生きる道を選んでいる。
もし彼らが奴隷のような苦しみを味わっているとしたら、それは何故なのだろうか。どうすれば働くことで幸せになれるだろうか。

 

 

 

 

古来働くことを人は選択してきた。およそ働かずに生きてこられたのは奴隷制度の上に生活を為した人か恵まれた放蕩息子の類いだけだったろう。
いや、働くことを選択してきたというよりも生きるということが働くということそのものだったと言っても良いかもしれない。自然を生きる動植物を見てみれば、およそ限りある命のうちのほとんど全ての時間を糧を得るために費やしている。もしかすると生物の生態について私が知らないだけで、実はイルカのように作曲をしたりまた他の生き物も家族とともに憩いの時を過ごしたりして生を満喫しているのかもしれない。しかし少なくとも日々の糧を得るために時間を割くことをしない生き物を私は知らない。ヒトという種族も物心ついたときから狩猟、稲作、その他の産業をなしてきた。人を含め生き物とは生きるために働くように作られているのだ。働くということが日々の糧を得ることを言うなら、それはあくまで生物学的には生きることそれ自体だったはずである。そして働くことは生きることそれ自体にとって本質的な行為なのだということが真実ならば、働くことを苦痛に感じるというのは決して見過ごしてはいけない社会の病気である。

 

 

 

 

社畜と呼ばれる人たちに次の質問をしてみる。

もし週5日働いて月一で給料日がくるか、週5日ごとに給料日が来て月一で出勤するかどちらかを選べることになったら、それでも今のライフスタイルを選択するだろうか。
一月でもらえる給料の総額はどちらの場合も同じとする。

どちらを選ぶだろう?

 

社畜は間違いなく後者のライフスタイルを選ぶだろう。
つまりもし可能ならできるだけ働く時間は少ない方がいいと思っている。それは働くということが彼らにとって至上の目的ではなく、他にもっとやりがいや生きがいを感じることを持っていることを意味する。例えば家族とともに時間を過ごしたいだとか、ボランティア活動をしたいだとか、大学に入り直してもう一度数学を勉強し直したいだとか、中身は人によって様々だろう。いずれにせよ共通していることは働くこと自体及び働いて得られる給与自体は彼らを最も幸せにするものではないということだ。

 

 

 

 

本来は仕事にはサービスを受け取る人々を幸せにするだけでなく、その笑顔がサービスを供給する人を喜ばせるという喜びがある。そのときわれわれは仕事を通して自己実現欲求と承認欲求を満たし社会への帰属感を強める。単にお金を稼ぐことで得られるのとは次元を異にする報酬が仕事にはある。働くことで幸せになれる可能性がここにあるだろう。

はたしてお金で量れない報酬が勤め人にきちんと与えられているか。自己を社畜と卑下し「できれば働きたくない」と主張する勤め人たちには与えられていないのだろう。例えばブラック企業かどうかは関係がなくホワイト企業でもグレー企業でも同じようなことがあるかもしれないが、誰かが欠けるだけで回らなくなる職場は組織として問題があると言われるという。組織としては健全な判断なのかもしれないが、人間一人から見た場合どうだろう。自分がいてもいなくても同じようにその企業の製品やサービスを受け取る人の笑顔は変わらないのだとしたら、その人はお金以外の報酬を実感できるだろうか。働くという活動の報酬が単なる給金以上に他者や社会との関わりの中で役割を果たす喜びに根ざしているのだとしたら、働く人間が代替可能となった職場にはもう働くことの喜びはないだろう。つまり何が言いたいかというと、働くことを苦痛に感じる本因は、仕事において人間が交換可能なものとして扱われる仕組みにあるのではないかということだ。

 

 

 

 

人間に代替性を付与する仕組みは全体的効率性を達成する一方で人間の尊厳を損なわせる。
働くことでどうすれば幸せになれるかに答えよう。原因がこの仕組みであることが真実だとするならば、答えはその仕組みを抜け出すか破壊する以外に求めようがない。
この仕組みに当てはまらない企業は確かに存在する。少数の技術者集団で形成される企業がそうだ。昨今やたら若人が独立したり起業したりしているのは多分多くの二十代が私と同じようなことを考えているのだろうと思う。若者は政治的に声を上げないと言われることがあるが、時間が経てば若者がおじさんおばさんになる。同じようなことを考えている人が結構多いならちゃんと世の中は変わるだろうと楽観視している。

スゝメの漫画

漫画 人生 偉い人の言葉

町田くんの世界安藤ゆき

この漫画は一言で言うと人間肯定の漫画。
広く人を愛する精神を表現している。

 

 

 

 

ところで人生に悩み論語を図書館で借りてきて読んでいたらこんな一節が心にとまった。

 

『子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖未學、吾必謂之學矣』

「子夏が曰わく、賢を賢として色に易え、父母につかえては能く其の力をつくし、君につかえては其の身を致し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばざると雖も、吾必ずこれを学びたりと謂わん。」
(子夏が言うには、優れた人を優れた人として慕い、父母に仕えてはよくその力を尽くし、君に仕えてはよくその身を捧げ、朋友と交わるときには話した言葉に誠実であれば、まだその人が学問をしていないと言っても、私はきっとそれを学のあることだと言うだろう。)

 

いきなり何の話だというと、これを読んで最近読んだ漫画を思い出したのです。
それが冒頭であげた『町田くんの世界』です。
子夏が論語で評する人物が町田くんにそっくり。ではないけど彷彿とさせる。

 

 

 

 

町田くんは人を愛し、家族を愛し、友人を大事にする誠実な高校生だ。
でも自分では要領が悪く勉強やスポーツは苦手で得意なことなんてあるんだろうかと思っている。
だけど周りの人はそんな風には全く思わない。
町田くんに接する人はみんな、現代を生きる孔子のような仁徳溢れる彼の人柄に惹かれ救われていく。
そうして読者も巻き込んで町田くんは癒してくれる。

毎日を生きるのに精一杯の頑張っている(悩める)大学生にとって心の栄養剤になるかもしれない、面白いというよりもあたたかい漫画。

論語が好きで孔子が好きなあなた、この本を選んだ人はこちらの本も買っていますよ!

 

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ホームページ↓
http://betsuma.shueisha.co.jp/lineup/machidakun.html

ちなみに箔付いてます
2015年 - 第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞
2016年 - 第20回手塚治虫文化賞・新生賞
2016年 - このマンガがすごい! 2016 オンナ編第3位

学歴とかいう下らないプライドと偏見とにまみれた豚野郎にだけはなりたくないなと思っていたら実は自分自身が既にかなり豚野郎だった話

偉い人の言葉

ラ・ロシェフーコー
「慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。(…)栄達を極めた人々の慎ましさは、その栄位をものともしないほど偉い人間に自分を見せようとする欲望なのである。」(『ラ・ロシェフーコー箴言集』箴言集18より途中一部省略)

 

私は学歴という狭い世界の狭い基準に関してはちっぽけだが栄位を持っている。
そしてそれでいながら「そんなものは全然大したものじゃないから」と冷笑しながら弱々しげに主張し(書いてみるとめっちゃ嫌な奴だな、ちょっと気をつけよう)、ロシェフーコーが言うように常日頃慎ましい態度を崩さない。

 

それはそうすることでなお一層人徳のある人間だと周りに思われようとしているわけではない。
なお一層人徳のある人間だと自分自身が思い込もうとしているのである。
逆に言うと自分自身が下劣な人間であるということを認めたくないのだ。

 

正直大学や学部を聞かれることが苦手だ。

それは京都大学法学部だと答えたときに相手が純粋な尊敬の目を向けてきたり、ひねくれた賞賛をしてきたり、急に敬語になってきたりするのが、気分が悪いからではない。それを気分がいいと思ってしまう自分がいることが気分が悪いからである。
そういったエリート志向の強い虚栄心にまみれた人間にだけはなりたくないと常日頃思っているのに、実は私自身偏見とプライドで肥えた豚野郎なのではないかと疑ってしまうからだ。いや、正確に言うと疑ってしまうからではなくて、気づかされてしまうからだ。
自分が嫌悪するタイプの精神性を自分も有していることを突きつけられたときにどうしようもない不快感を覚える。自分を嫌いになりそうになるからではない。自分を嫌いになる人間にだけは常日頃なりたくないなと思っているのに、実は自分自身が自分を嫌いになりそうな状況に瀕していることに気づかされるからである。
そう、自分が陥らないようにしている人間の弱い部分を実は既に自分の性格の一部として有していたことを知らされるのだ。そのことに耐え難いもどかしさを感じる。それは自分が弱い人間であるということ自体を受け入れられなかったからというよりは、むしろ…
うん?なんかずっと同じこと言ってないか…
自分でも何言ってるか分からなくなってきたぞ。

 

とにかく偏見とプライドにまみれた豚野郎にだけはなりたくないと思う悲しみの豚野郎、それが私。

娯楽について

人生

娯楽には高いものと低いものとがある。

高いものは芸術に近い。
人の記憶になって栄養になる。
また新しい娯楽やときには芸術を生む糧となる。

卑しい娯楽は過ぎていく喜びだ。
芸術が大衆におもねりへつらうとこの娯楽ができる。
過ぎていくものは時間と楽しさ。
やってくるのは虚しさ。

快楽の奴隷になった娯楽の虚しいところは背中にいつも哀しみが残ること。
消費は消し費やすと書きますが、失くなるもので心を満たすことはできませんから。

でも一番虚しいのは、その哀しみを紛らわす方法が娯楽以外に分からなくなること。それは血で血を洗い流すように無益なことで、終わりのない不安に行き詰まる。

鬱から躁へ!(B'z風に)

だからなんだ

最近何をやっても面白くないと感じてしまう…

気力がわかない…

なんのために生きてるんだ…

そうだ、死ぬってどんなだろう…

 

そうやってうだうだ妄想したことを気づくとタブレットにメモしている。

 

そして今日、2週間分のメモを読み返して

ふと

自分の心が周期的な運動の様相を呈していることに気づいた。

 

 

 

 

2月10日のメモ
「寒い夜だった。寒さは少しずつ体力を奪い精神も疲労させる。わたしは冬も2ヶ月が経つうちに無自覚に恒常的な無気力症状に囚われてしまっていた。あんまり寒いので天気が恨めしくなって窓から顔を出してみる。すると外は部屋の中よりずっと冷たいのに、何気なく見上げた夜空は寒さを忘れるくらい美しいと思った。何を見ても面白くなく、理由の判然としない苛立ちを感じてばかりだったのに何故そう思えたのかはわからない。しかし日中空を塞いでいた雲と湿気が今まさに突風に吹き流されていくさま、思わず吸い込みたくなるような清廉な冷気、肌が全身冷水で洗い上げられるような感覚、その全てが心地よかった。特に夜の洗われた空気の香りはどんな酒や食事よりもずっと美味しかった。」

非常にロマンチックな抑鬱状態が見て取れる。

 

 

 

 

2月24日のメモ
「享楽主義者なのに娯楽がつまらないと思うようになったらなんだか生きることまでつまらなくなったように思えてくる。最近何を読んでも何を見ても大抵つまらなく感じてしまう。その作品を馬鹿にしてしまうことだってある。最近読んで面白かったのはレオナルドダヴィンチの名言集とブラジャーでアイマスクを作る記事だけだ。楽しければいいと簡単には思えなくなってしまった。簡単に楽しいと感じなくなったから。いつも生きる意味を漫然と考えている。就活が本格的に始まろうとしている今私は自己分析とかそんなみみっちいことはしない。就活にむけて生きる意味を考えている。死に方を考えている。死ぬときに自分が何を思うか分かれば生き方を決められるから。誰かのために使う時間を全て捨ててみて、自分のために時間を使うというのは難しいことだとわかった。何故ならありふれたものは浪費してしまいやすいから。誰かのために時間を使うっていうのは楽なことだ。何故なら他の誰かに自分の時間の使い方を決めてもらえるから。」

やはり無気力気味だ。
2月10日と2月24日の心の状態が似ている。

 

 

 

 

でもこの2週間ずっと無気力だったわけじゃない。
むしろこの2月10日と2月24日の間は自分でも引くぐらいはじけていたと思う。

2月12日【唐突に人生で最も重要なのは愛し愛されることだと気づく】
2月13日【飲み会に参加して幸せを感じる】
2月15日【日本社畜党率いる天才演説家、那智日虎が社畜革命を起こし政権を取る漫画を構想する】
2月16日【急に下ネタを思いつきブログで発信したくなる、そしてした】
2月19日【就活する気になる】

 

 

 

 

もしかしたら14日間で無気力→はじけ→無気力を繰り返しているのかもしれない。
となると明日か明後日あたり壮大な人生の意味に目覚める可能性が高い。
愛なのか。
他の何かなのか。

そうやって思いを巡らせるのが少し楽しい。

あら…

もうすでに次のはじけは心の中ではじけ始めているのかもしれない。

 

ほんのさっきまで

「何をやっても楽しくない…」

とか言ってたのに

 

いやー良かった良かった

来年から使えるお持ち帰り言葉

お持ち帰り言葉

来年から使えるお持ち帰り言葉
2月3日節分の日

▷Men's Only「俺の恵方巻きも巻いてくれないか」

【解説】
節分の日といえば恵方巻き。大切な人と新しい年の幸福を祈る日ですね。
Womenの場合は「私も巻いて」とかでいいんじゃないですか。男は馬鹿だから何でもいいと思います。
《keypoint》
食後にさりげなく使ってみましょう。
〔編者註釈〕
恵方巻きは太巻きとも呼ばれます。

▷Unisex 「後で寝室の邪気も一緒に払おうね」

【解説】
節分は豆をまいて鬼を払い恵方から福を呼び込む日です。鬼は夜に活発になるそうで、特に夜中に人がいる寝室に邪気がたまりやすいようです。
《keypoint》
食後にさりげなく誘いまししょう。

当ブログにお持ち帰り言葉を掲載する際には情報の正確性について特に注意を払っておりません。でも記載が不正確であったことにより生じたいかなる損害に関しても、当ブログ管理人は責任を負いかねます。

子供も大人も感情に蓋をすることに慣れないように祈ります

だからなんだ

一人称について

わたしは心の中で考え事をするとき

気弱な僕になることもあれば

飄々とした俺になったり

優しいわたしになったり

頭でっかちの私だったりする



大学卒業前後の多くの若者がそうであるように

私も詩や思索といったものに強い興味を抱き

自分の内面の世界を紐解いていくことに夢中になった

自己分析
性格診断

あるサイトで40分ほどかけて数百の質問に回答し
いくつかの論理問題や一般常識の問題を解いてみると

診断不可と出た

父性 母性 大人っぽさ 子供っぽさ
四つの指標で数百の性格に分類してくれるはずだったが

曰くどの指標も限りなく平均値に近いため
ふざけて回答した可能性が高いとのことだ



真実は私がその四つの指標では計れない性格をしているということだ

自分の印象について親に尋ねてみると

どんな人かよく分からないと言われた

20年近く育ててくれた親に

ママ友どうしで息子の話題になったとき
いつも私の印象は人によって十人十色だったらしい


僕は子供みたいに無邪気に振る舞うし

かと思えば妙にしっかりしているし

おじいさんみたいに静かに瞳の奥で何かを見つめているかもしれない

私は俺になるときもあるしそのままわたしでいることもある



多重人格とか

人格が分裂している状態とか

そういうわけではない

同じ一人の人間なんだけど性質が気分のように変化し得る



自分を閉じ込めるということ

私の場合はそれが複雑な性格を生み出すきっかけだった

大人の顔色を見て振る舞う子供だった

敬語でしか話せず、先生に子供っぽく甘えられる子たちが羨ましいと思っていた

自分では気づいていなかったと思うが

子供の頃の私にとって性格とは意識して作るものだった

役割を演じる悲しい子供だったのだ



子供の頃、私はみんなの面前で泣いた

弱い自分を恥じて心の奥底に閉じ込めようとした

そしてそれに成功してしまった

そして10数年もの間そのことを忘れていたのだ

大人になってから
あることを契機に奇跡と集中的な思索によって
子供の頃の自分が胸の奥深いところに長い間閉じ込められていたことを思い出した

そして鍵を開けてみると

不思議なことに僕の中には大人になった僕と子供のままの僕が同棲するようになった

その瞬間その日の間は僕は確かに子供だった

帰り道ずっと子供の僕が起きていた



精神年齢は凍結状態にあっては肉体の年齢と切り離された次元で存在し得る

しかしひとたび解凍されるとみるみるうちに肉体の年齢に吸い寄せられていった

気づくともう僕は俺で私だった

でもたぶん解凍してから意識的に多重人格を維持しようと思えば可能だと感じた

僕は少しそれが怖かった、だから意識的に僕は俺で俺は僕なんだと言い聞かせていた



だからなんだ

後日読み返して心底そう思った