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つれづれと草る日記

つれづれと草りたいときに草る日記です。

ここが変だよSPI性格検査 厳選3問

就活 偉い人の言葉

就活をしているとリクルートの子会社が提供しているSPIなる簡単な試験を受けることになる。

Synthetic Personality Inventory

総合的な性格 目録

被験者の性格や思考能力全般を測定してくれる素晴らしい試験だ。

 

SPIは性格検査と能力検査から成るのだが、SPI性格検査は惜しい点が一つある。

全ての質問にAかBかで答えなければならない点だ。

でも人間の性格はもっと複雑なんだ。

 

中学高校の社会科を思い出してほしい。

かのアリストテレスが言っていた。

全ての性質は中庸こそ最善なのだと。

SPI性格検査には

C「AとBのバランスが大事だと思う」

という選択肢がない。

もしアリストテレスがSPI性格検査を受けたら

仕方なく適当にAかBを選ばざるを得ないので、最終的に

「回答者は嘘をついているか不真面目に回答をしている可能性があります」

と判断されるのではないだろうか。

 

実際に性格検査の設問を3つ厳選して紹介いたします↓

 

 

 

 

①説得について

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そもそも説得術を心得た人なら相手によってより有効な手段を用いるだろう。

情に訴えることが有効だと思えば情に訴えるだろうし、理詰めがものを言うと分かれば理詰めで攻める。

だからそういう人たちは仕方なく適当に回答し、のちのち他の質問に対する回答と矛盾が生じることになってしまう。

 

もちろん理性的か感情的かというと多くの人がどちらかのタイプに分かれるのだろうが、50:50で両方の性質を持っている人間は中庸という回答が準備されていないと困ってしまう。

 

思うに人はそもそも理性的であり感情的でもある。

そうであればこそ涙をのんで悔しい思いを糧にするというようなことも起きるのだ。

それはただ感情ばかりに支配された生き方よりもただ理性ばかりに支配された生き方よりもよっぽど人間的な生き方だ。

 

分かっている。SPI性格検査が「強いていうならどちら寄りですか?」という設問なのだということは。

おっしゃる通りで理性と感情の間に葛藤が生じるからこそこういう設問が成立するのだが、葛藤が生じるということは裏を返せばバランスの余地があるということでもある。

私が言いたいのはそこでうまくバランスを取って生きているタイプの人もいるんだよという話だ。

だから中庸が選択肢にないと困ってしまう。

 

 

 

 

②自己主張について

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これも回答しづらい設例だ。

自己主張をしすぎて後悔することが多い人はいるだろうし、逆に自己主張を我慢して後悔する人もいるだろう。

そうやって次はもう少し我慢してみたり、もう少し自己主張してみたりして、ちょうどいい線の引きどころを探っていくのが大人ではないだろうか。

人間関係に正解はない。

なにせ世の中に同じ人間は一人としていないんだから。

だからもどかしくて悩むんだし手探りで分かり合おうとしていく。

自己主張で悩むというのはちょうどいい線の引きどころに悩むということであって、向こう側に引きすぎるかこちら側に引きすぎるかは、どっちも同じ悩みなんじゃなかろうか。

つまり自己主張が強すぎてする後悔も、自己主張を我慢しすぎてする後悔も本質的には全く同じことだと思うんです。

子供の頃Aに(Bに)偏っていて、青年期に反省してBに(Aに)移ろうとしてみて、大人になってやっぱりそれでも同じように自己主張の機微に悩んで、遂に結局はどちらに寄ろうが本質的には変わらなくて大事なのはバランスをとることなんだと気づく、それがリアリティある一人の人間ではないでしょうか。

そのときその人は自己主張をしすぎてした後悔も自己主張を我慢しすぎてした後悔も同じ数だけ知っている味わい深い大人になっていると思うんだけどなあ。

 

なぜ回答の選択肢にC「どちらも同じ数だけ味わってきた」がないのかしら。

 

 

 

③保守と革新について

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もちろん世の中にはバリバリの保守主義者や革新主義者は一定数いるだろうし、大多数の人は「別にどっちでもないんだけどどちらかというとこっち」という立場だろう。

でも中にはちゃんと考えてる人がいて、確固たる意志を持って革新的な考えを大事にする人や、確固たる意志を持って保守的な考えを大事にする人もいるだろう。

 

私自身は生まれつきマイペースで斬新なアイデアを出したりするのが得意だった。

そしてどちらかというと常識や伝統を理由にアイデアを制限されたりするのが嫌だった。だから保守的な考え方が嫌いだった。歴史や伝統を大事にする理由を聞いても「ずっとそうしてきたから。伝統だから。」と言われるのにウンザリした。

 

でも作曲をするようになって、自分では最高だと思う音楽が音楽経験者に全く評価されないことに気づいた。そして音楽はある種言葉のようなものできちんと相手にわかるようにルールに則って表現することが大事だと気づいた。

そして自分では最高だと思った音楽を音楽経験者に理解してもらえるような形で表現するために古典和声(クラシックの作曲理論)を学んだ。朝から晩まで半年くらい。

個性を表現するために伝統を道具として用いるようになったんだ。

 

特に学問芸術の分野ではこのことがすごく大事だ。

時代に名を残す偉人たちはたいてい革新派でも保守派でもなくて、伝統のはしごに上って絵を描いた、言わば保守的革新派ばかりだ。

バロック時代を切り開いたモンテヴェルディルネサンスの音楽を全て吸収していたし、かの有名な数学者物理学者哲学者ニュートンだって「私が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗っていたからだ」と述べている。

孔子の言葉にも日本人なら誰もが知っているであろう温故知新というものがある。

古きを温め新しきを知るというのは正に伝統を重んじる革新派の姿勢そのものだ。

保守と革新のバランスが大事なのだということは、結局はアリストテレスの言う中庸に通じるだろう。

 

逆に保守派の人もいつかきっと歴史や伝統がなぜ尊重されねばならないのかという問いに答えなければならなくなる。

伝統が常に伝統であり続けるためには

「伝統だから。今までそうやってきたから」と答えるだけでは足りないのだ。

何故なら時間は全てを飲み込み、いつか伝統自体の求心力も飲み込もうとする時が来るからだ。

そのとき伝統自体の意味をもう一度ありありと捉え直すことができるのは誰の目か。

保守派の目ではない。

人は自分自身の顔を直接見ることはできない。

革新派の目からこそ伝統の意義、強さはありありと見つめることができるに違いない。

 

保守派だろうと革新派だろうと自らの立場と信念を突き通すためには、いずれ必ずお互いの力を借り合わねば立ち行かなくなるのである。

 

私は確固たる意志を持った保守的革新派だ。

それはよくある"どちらでもない"では決してない。

中庸というのは決してただの中間じゃない。

バランスを取るというのは消極的な姿勢では達成できない。

中庸とは積極的に取る態度だ。

 

でも選択肢にC「保守と革新のバランスを大事にする方だ」がないから私みたいな人は適当に答えるしかないの…

 

ふざけて回答してるわけじゃないんですよ…

嘘つこうと思って嘘ついてるわけでもないんですよ…

 

矛盾した回答になっちゃうのは私にとって選択肢が足りてないからなんです…

 

 

 

最後に

こういう具合に中庸の立場の人が答えづらい問題が他にも沢山ある。

正直アリストテレス孔子みたいな人は現代社会じゃマイノリティだろうけど、いなくはないんじゃないかな。個人的な願望としては割と沢山いてほしい。

この試験に対するモヤモヤした気持ちに共感してくれる人、強く求む。